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機械礼賛 [いのち]

日産自動車が自動運転可能な新車を発表するという。世界は此処まで来たのかと感じた。シリアでは人間の根底の欲望が露な闘争が展開しているという。先日関東の地を離れて関西方面の旅をして来た。
傍らに図書館で借りた「ネット バカ」インターネットがわたしたちの脳にしていること ニコラス・G・カー著を読みながら。世界はネットの世界に入ってしまったことは確実で、それがどんな未来を展開していくのか?を読みながら。
同時に、豆腐屋の四季という名作を読み感動を深めながらの旅となった。

豆腐屋の四季・その仕事1  松下竜一著  246頁より
機械
激しい激痛に襲われ働けなくなった日、私は父と相談して、豆腐を固める重しを水切り機に換える事に決めた。腰痛の主因は、日に何度もあげおろしする幾貫の重しにあったからだ。到着した水切り機はてこ利用の装置で、使ってみると楽々と豆腐を押し固めるのだった。
父母が豆腐屋を始めてから二十年間、欠かす事の出来なかった重石十個が一挙に追放されることになった。深夜の静寂に重石を積み重ねる固い音のカツカツと響き透ることももうないのだ。もっと早く据えればよかったなあと老父も感心していう。機械を買う三万五千円の余裕がなかったのではない。私には機械への反撥があるのだ。もし私に丈夫な体力があれば、決して水切り機など据えず重石を抱き続けるだろう。機械が据わり労働の過程が楽になればなるほど、私は何かを失いつつある気がしてならないのだ。
労働とは労き(いたずき)のことであり骨折りのことであったはずだ。苦しみに耐えることであったはずだ。だが機械は次々に労を省き苦を去ろうとしている。
いいことではないか、すばらしいことではないかと機械を礼賛するのみでいいのか。そうやって心身の労がなくなり苦への忍耐が薄れるとき、はたして私たち人間は何ひとつ失っていないのだろうか。機械はひそかに人間の本質から何かを奪いさっていないだろうか。人間の心情に機械の及ぼす影響は無視していい程微少だろうか。機械は効率の追求でありムダを許さぬものである。機械の導入が進めば進むほど、人の心情も思想もムダを厭い理の計算の早い合理主義に変わっていくのだろう。だが、私は人生におけるムダをどんなに愛していることだろう。利口に立ち廻れぬ私は、ムダばかり錯誤だらけの過去を経てきた気がする。だが、それゆえに人生の哀歓を何と深くしみじみと味わってきたことだろうか。
中略
苦に耐えている誇りは私の精神を強くし、深夜の思惟に深さを与えた。しかし今や、この激しい商競争の時代に、零細家業といえど機械の導入は生き残る基本条件となった。
中略
他の豆腐屋はより進んだ新型を導入していく。私の頑なで愚かな機械批判が、結局我が家の商売の発展をどんなに阻害していることか。市内四十余軒の豆腐屋の中で、今では小さな部類に取り残されてしまった。

古びれば機械もそれぞれ癖強しあやすが如く夜の油差す

豆腐屋も町から消えて大きな工場で作られる時代になったけど、小さな町や村で豆腐屋があることは豆腐好きの自分にとって嬉しい気持ちになります。

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機械と人間、古くて新しいテーマだと思う。人とは何かが機械という存在から見えてくる気がする。
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人が四本脚から立ち上がり、二本脚歩行を始め、道具を生み出し、早く遠くへ移動する手段を此処までの世界に持ってきた。アメリカインディアンの老人の言葉に魂を置いて人は何所へ行くのかという言葉を思いだす。
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車窓から見る見知らぬ町の光景の中の暮しを思う
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多くの機械によってあの家の群れも誕生したはずだ
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神戸の町は何故か愛しい思いが募る
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海が存在する町神戸だからなのだろうか。晩夏の中の光景に水の気配を濃厚に感じる。
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湯屋と呼ぶのか風呂屋か銭湯か暖簾が夏だった。
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一両編成の列車は、人の外にも、何か大事なものを運んでいるように見えた

輪廻転生 [いのち]

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散歩の途中で山薊の花が沢山ついているのに出会った。一枝頂こうと思うと鋭い棘が花の下の茎の裏側に隠れている。暫くして花が終わると薄茶色の実をつけ始めた。タンポポの綿毛の様な種子が一斉に空へ旅立とうとしている。この種子ならば持ち帰ることが出来ると指でひとつかみ持ち帰った。室内でも微かな空気の流れに反応し、浮き上がり移動を開始しようとする。
ケサランパサランという飛行物体が話題になった時代があった。かの正体は何だったのか。

 ウイキペディアでは、白い毛玉のような物体で、空中をフラフラと飛んでいると言われる。一つ一つが小さな妖力を持つ妖怪とも言われ、未確認生物として扱われることもある。
もぞもぞと動く。名前の由来については、スペイン語の「ケセラセラ」が語源だという説、「袈裟羅・婆裟羅」(けさら・ばさら)という梵語が語源だという説、羽毛のようにパサパサしているからという説[2]、「何がなんだかさっぱりわからん」を意味する東北地方の言葉との説[3]、などがある。
穴の開いた桐の箱の中でおしろいを与えることで飼育でき、増殖したり、持ち主に幸せを呼んだりすると言われている。だが、穴がないと窒息して死んでしまう、おしろいは香料や着色料の含まれていないものが望ましい、1年に2回以上見るとその効果は消えてしまうなどと言われることもある[4]。ケサランパサランを持っているということはあまり人に知らせないほうがいいと言われているため、代々密かにケサランパサランを伝えている家もあるという伝説もある。
1970年代後半に、ケサランパサランは全国的なブームとなった。この時ケサランパサランとされた物の多くは、花の冠毛からできたものであった。
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花火にような種子から延びた飛行の為の脚は、その先が小さな枝をはやし、羽根の様に空気の流れをつかむ構造のようだ。天空へ舞い上がろうとする種子の姿に何故か、輪廻転成という言葉が浮かんだ。
命あるものいつかは死を迎える。その死は新しい命へ受け継がれる。アザミの種子は命の種子を何処まで運ぶのだろうか。無数の命が転成する。その転成先は選べないのだろうか。命ある時の行いが転成先を育てているのかもしれない。
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輪廻転生、世界は終わらない。
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輪廻転生、世界の時間は繋がっている。
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光も転生するのだろうか。強力な闇か、より輝く光の世界へとか。
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命を頂く
朝とれたての茄子、かたちの好いもの6本で百円
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七輪の炭火の上で湯気をあげる
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命を頂く
一個百円の栄螺、酒と醤油を頃合いにさして。
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命を頂く
黒アワビ、正月なら高い価格だというが、今は半値以下のお買い得品。
刺身で豪華に頂いて
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竹とんぼの様な、紅葉の種子が天空旅行を計画中
週末の豊かな食卓でした
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薊よ、栄螺よ、茄子よ、紅葉よ、貴方達は何に転生するのか。

炉火純青 [いのち]

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ろかじゅんせい と読むそうだ。炉の火炎が純青になると温度も最高に達するそうだ。
子供の頃、空の青い星を見るのが好きだった。LEDの刺す様な青い光源と違い、大気を通して透きとおった冷たいが、何か暖かみを感じる青さだった。紅い星は何か埋み火の様な消えゆく不吉な星の予感がした。青春という響きにも希望と不安と未知なる危うさが籠った言葉に感じる。
最近身の回りに、緑青のあるものの存在が多くなった。
銅が酸化すると美しい緑青を出現させる。昔はこの緑青が猛毒と信じられていた頃もあったらしい。
何故自分は、緑青の存在に引かれるのだろうか。それは人がカワセミの羽根の姿に魅かれるのと似ているのかもしれない。青から緑迄の諧調は幅広い、素材感が様々に展開するとより深みを増す。光沢のある緑青、深く砂の様に沈んだ緑青。神秘の色かもしれない。
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ゴミ捨て場から拾われた茶釜の蓋の緑青の渦
いつの間にか2箇所に発生中
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銅の円柱 白い錆が緑青に映える
青い芥子の花はヒマラヤでしか見られない花と思いだす
薔薇も青い花は珍しく見た事がない
青の領域が難しい
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彫刻家の青い林檎
青磁という色は中国で生まれたという、空の色の写し
青磁の空の下に実る様な林檎
祖父の日記では「林子」と書かれていた。
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緑青で染まったコンクリート片
公共建物の屋根が銅葺きで、酸性雨の為に緑青が流れて地面の光景が緑青に染められた。
その道端のコンクリート片を拾う。
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掛け花入れにしている雨樋の一部
三角の樋が見事に緑青を吹き出している
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青の諧調は色褪せし易い
日焼けで色が抜けた帙
青は闇に繋がり、暗さを表現する言葉から始まったという
青は死のイメージも強い
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スタンドにも緑青の粒が発生
ひかりは赤という表現で人間には認知された。あかるい、赤、明らか、明暗。
闇はひかりを引き立てる重要な存在。闇があっての光。
若い頃は鉄の錆が好きだった。鉄が酸化して燃えるのが赤錆。冷たい鉄が静かに燃える錆の世界、今でも好きなのだが、何故か緑青に引かれ始めた最近。思えば補色関係にある、赤と緑。何か訳があるのだろう。人の血液は赤、植物には緑なにか不思議だ。
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一気に紅葉が始まった黄櫨の盆栽
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他の黄櫨の盆栽は緑の真っ最中
何故この盆栽だけ紅葉が早いのか
原因がわかった
鉢の下の皿に水が貯まり、鉢はひと月近く水に浸かった状態だった。
水分が紅葉に拍車を掛けたのだろうか
この周辺だけに秋の気配が濃厚になっている
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皮膚感覚 [いのち]

「名前のない道」赤木明登著に、視覚と触覚の話が出てくる。著者は能登で漆の職人と也、うつわを塗りつづけているそうだ。器を塗り続けていると、言葉があふれてくる。と、著者は言う。ひたすら身体が覚えて腕が、指が、身体が動く。漆とは接着剤として、保護材として、ものの表面を覆おう。その表面は肌と呼ばれるのだろうか。皮ではない。皮膚でも皮でもない「肌」という言葉がぴったり来る。

逆引き辞典で「肌」を調べると、雪肌、玉肌、美肌、新肌、両肌、絵肌、赤肌、青肌、木肌、地肌、姉御肌、鉄肌、鮫肌、柔肌、岩肌、限りなく出てくる。肌理、肌色、肌薄、肌砂、肌刀、肌寒まだまだある。
肌焼とは夏の季語だろうか。肌は生きていて下界のセンサーでもあるのだろう。鳥肌が立つ、肌で感じるということも多い。肌を脱ぐという言葉もある。皮は触覚的に硬いが、肌は触覚的に柔らかなイメージが強い。

身近なもの達に、様々な肌を持っている世界がある事を楽しんで撮影してみた。肌とは、其の物の素材の性質を表わす、情報の入り口の様に感じる。

著者は、木の器も、自動車も、同じ様な機能を持っているという。器はおかれたテーブルのA地点から、口元のB地点迄移動する事を助ける役目を果たす。車はA地点から、B地点迄移動する役目を果たす道具だ。移動のみでなくその器の持つ素材感や、重量感、視覚的なデザインが重要な要素だ。

さまざまなものの本質を視る眼と、触れることにより得られる情報の指先、視覚優先の世界から触覚重視も必要なのかと思う昨今です。

神の訪れも、風や音が知らせる肌で感じる世界。理解する世界よりも、何かを感じる世界。その先は名前のない道が、横たわっているのを感じだしました。

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落花落実 [いのち]

近所の路地に、柿の実や、梅の実、枇杷の青い実等さまざまな、実が落ちている。
俳句の季語では、ジューンドロップというそうだ。六月の滴、六月の球体といったところか。
落ちた実の花々はいつ咲いたものだろう、数ヶ月前に花をつけ、結実した実が多すぎると、自然に大地に実を落とす。おのれの命を守る為に間引きを自ら行うメカニズムなのだろうか。
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企業もおのれの生存を守る為に、人々を解雇する。その様が何かジューンドロップに重なって念われた。
自ずから企業を去る人、追いやられる様に去るひと、外界からの影響で去らざるを得ない人、様々な去り方や離れ方があるのだろう。
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人も草木も花が咲く頃が一番の充実期なのだろうか。実を付けても落ちざるを得ない実と残る実と。
草木に潜まされたメカニズムが、自ずから木を離れる実と、強制的に切り離される実に別れるのだろうか。それとも外からの刺激が影響を与えて実が落ちる場合も多いのだろうか。天候異変、温度の変化、風の具合、放射能もなんらかの影響を与える事は考えられるだろう。
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したむきやうえむきありしじゅーんどろっぷ
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暴落や果実大地をおおう夏 SILENT
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明珠在掌 [いのち]

皆様からの御丁寧なお悔やみのお言葉、ありがとうございます。心より御礼申し上げます。

我が家の片隅に「明珠在掌」と書かれた短冊が壁に在る。我が掌の中にこそ、尊き珠はあるのだと。
身近な幸せや、宝物は案外身の回りにあるのだと。その短冊を見て思う。
日常というものの如何に大切な事か。先日の東北大震災の後から痛切に感じる様になった。今も非日常を生きる人々が何と多く居られる事なのだろうか。心して生きねばならない。
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好きな作家だった開高健の作品に『珠砕ける』があった記憶がある。人間という生き物が産み出す、命の営みが産み出した珠が脆くも砕けて大空から大地に還るという深読みをした記憶がある。山の奥の温泉でのシーンにも忘れられない情感が漂っていた。
珠という存在は、細胞の一つにも近しい思いがする。中華では完璧な珠を求め、お隣韓国では少し重力で歪んだ珠を愛で、我が国では露の玉に見られる自然(じねん)なる珠を愛おしむのだろうか。
円きものは言葉に尽くせない程の宇宙観が広がる思いがする。魂の珠にも通じるし。

最初の画像の白い花は、近くの公園で拾った「エゴの花」の落花だ。エゴの木は、橲(ちさ)とも呼ばれ平安時代の歌にも詠まれたそうだ。可愛い可憐な花を下向きに咲かせる。木のいちめんが白い鈴を成らした様に見える様は壮観だ。この橲を使った福島縣南相馬市鹿島区橲原(じさばら)が祖父の故郷だった。地名としては始めてみた時読めなかった。この橲とは何か、何種類かの説があるようで今年二月箱根の山間の温泉で見た日影の植物、岩煙草の古い時代の呼び名が「ちさ」であるという事を知る。
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二月には2センチ程の縮緬状の葉が今では伸びて、15センチ程に大きく広がり、小さな蕾をもった。花は六月くらいに咲きそうだ。この植物を山からこっそり持ち帰り、水苔のたっぷりはいった鉢に植え込み、植物図鑑で調べて古名「ちさ」とあるのに驚いた。何か見知らぬ力が働いて知らせてくれているのだろう。不思議な出会いだ。陶芸家河井寛次郎の言葉に「自分買ってくる」という好きな言葉がある。路で出会って買ってくるものは、所詮自分なのだ。自分が意識した買い物は、其所に濃く自分が反影し、自分そのものなのだと解釈しているのだが。
自分の書棚に並ぶ本達は、自分の裸の姿を見られるのと同じと言った感覚なのだろう。
岩煙草には、白と紫がかった紅の花の二種があるそうだ。我が家の白い蕾は紅くはなりそうもないのだ。R0099516.jpg
何気なくテーブルにおかれたトイレとペーパーのはためく姿が美しい。
名を知らなければ「薄巻き紙」と呼べばいいのだろう。
モノはその存在だけを先入観なしに見れば、珠となるのだとおもう。
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光がそれを演出してくれているから珠でいられるのだが
滲みや、透け感が、初夏と溶けるのか
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庭の鉢の一輪の薔薇も咲き始めてから、朱から深い紅に色を変化させている。僅か一週間で乙女から老婆へ変貌する気配を感じるのは儚く切ない思いとなる。
濃い緑があって花の色が冴え渡る。脇役あっての主役の思い。
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昨日の硝子のコップに、山から箱根うつぎと、昼顔、ヒメジオンが加わった。
ティーポットと気品の高さを競う様な野草達。
これもまたよし
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ものけいろ春爛漫によこたわる  SILENT


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はなのいろうつりにけりなモノクロへ

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1998 [いのち]

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昨日の夕刊に警察庁発表の、昨年一年間に調べた遺体の総数が17万3833体と1998年以降では最多だったとある。独居老人の孤独死等が増えて、そのうち犯罪の疑いのない遺体は15万を超えるという。殺人等犯罪に巻き込まれた遺体は734体とある。人は生まれるときは選べないが、死の時にはこうありたいという願いを叶える事が出来る人もある。死の選択を選べるとはどういうときなのだろうか。「その一生がどうだったかは死の時迄わからない」といった言葉があったような気がする。人には平等に死が来る。
人も動物も植物も死亡率100%の条件を与えられている。
やはりいかに死ぬかは、いかに生きるかということなのでしょう。

過ぎ去りし十七万の以死の冬  SILENT


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冬の空に沢山の八手の実が浮かびます。小さな頃竹にこの実をつめ、あとから紙を丸めて押し出し、鉄砲を作ったが飛ばなかった。
丸めた紙の摩擦が大きく詰まっていたようだ。たまに飛び出すとポンと威勢の良い音が嬉しかった。
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夏の日よりも鮮やかな彩りは、その厳しい日射しがクリスタルのようだからなのか。
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ミモザが花を咲かせようとして枯れていた。今年の為の花なのか去年の春の蕾なのかわからない。
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映り込む景色は、振り返ってもあるのだろうか。
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白い家の兎は日溜まりへ飛んだ 
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発光する家を見た2013年冬の日

1907 [いのち]

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1907年発行の滑稽新聞・絵葉書所世界の8号「陰陽大根」宮武外骨編にある大根二体は陰陽の世界観を表わしたもだろう。それを1985年青山にあるポストカードショップ・オンサンデーズが復刻したもの。
2013年は極寒の日本列島で大根を我が家でも、沢庵漬けにした。寒さのせいか、絶妙に美味だ。第二段の沢庵を作ることになり急遽大根を探した。なまめかしい姿の白い肌の素材が見つかった。
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定価金百円也、纏足のような足元がより妖艶だ。
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立ち姿も、危ういさまである。
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妖しい大根は切り干し大根に姿を変えて見る間に変身していく
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富士からの風も、干すのに絶好の条件なのか
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細く短い大根の い の ち
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糸の様に 冬の風に 晒される
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沢庵用の大根も見る間に歳をとる
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今年始めての蕗の薹
庫裡いちめん春立ちこめし蕗の薹 SILENT
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2011 [いのち]

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2011年我が家にやってきた茨木からの彼の年齢も7歳になった。人間なら中年にさしかかる頃の年齢だそうだ。ある日本屋で彼によく似た姿を見た。本のタイトルは「犬は神様」山本容子著
DOG IS GOD とある。 銅版画家の作者は鎌倉の海で、表紙にある彼と出会ったという。彼の名はルーカス。
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この本で、我が家の彼とルーカスがよく似た性質であることがわかった。
野性味のあるオーストラリアの犬種でディンゴという種類があると彼女はいう。狐のようなオオカミのような姿である。野生の強い犬はその身体から発する匂いが少ないという。我が家の彼も体臭は少なく匂いが感じられない。ルーカスも無臭に近い犬だとある。
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彼は仔犬の頃から、連続して欠伸をする。犬の欠伸は緊張の現れでもある本にあった。そうなのだろうか。

鎌倉のルーカスは大画家の名前からとった名だという。

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もつれた糸を何故か切り刻みたいときがある

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網の目が目に入らず網戸という存在を忘れて外の景色を見ている
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隣りの国の北もわからない国だがそんな国の写真集を見た
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日常の北朝鮮の人々
2002年、当時の小泉純一郎首相と金正日総書記が日朝平壌宣言に調印してから10年を経た。敵国視が続く北朝鮮、かの国を政治的視座ではなく、庶民の目線で見たらどんな世界が見えてくるんだろう。
気鋭の写真家が3年の歳月をかけて単身、平壌の日常、地方の庶民生活を潜入ではなく堂々と正面から撮影を敢行。金正日体制から金正恩体制の移行期の北朝鮮、そこで見えてきたのは――。
(以下、撮影対象の一部抜粋)宅配ピザ屋のバイト嬢、産婦人科での新生児と出産後の母親、公園で酒盛りをしている男たち、プールで遊ぶ水着カップル、今年オープンの遊園地で絶叫マシンに興ずる人々、町で声を掛けた美女、波打ち際で愛を語り合う男女、杏の花の下で待ち合わせる恋人たち、マラソン大会で最下位を走る少年、無邪気にキスし合う子供同士ほか。
これまで決して撮られることのなかった生き生きとした表情のある北朝鮮の人々。世界的にも類を見ない撮影の記録。巻末に、先方との交渉過程、現地案内人との撮影現場等でのやり取りを記した「滞在記」を付記。
著者について
初沢亜利(はつざわ・あり)
1973年フランス・パリ生まれ。上智大学文学部社会学科卒。第13期写真ワークショップ・コルプス修了。イイノ広尾スタジオを経て写真家としての活動を開始する。
写真集・書籍にイラク戦争の開戦前・戦中のバグダッドを撮影した『Baghdad2003』(碧天舎)、衆議院議員・福田衣里子氏の選挙戦から当選までを追った同氏との共著『覚悟。』(徳間書店)、東日本大震災の発生翌日から被災地に滞在し撮影した『True Feeings』(三栄書房)
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この光景のプールの外にはどんな光景があるのだろうか
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衛星写真の発射台よりも輝いて見えた少年

雨の日は何所の国でも同じような光景が
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何処かの駅でこの女の人を見たような
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何処から来て何所へ向かう人々か
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何所の国の建物か無国籍だが今の地球の一点だ
普通の人々の写真集
貴重な写真集だとおもう
徳間書店刊
何か感動した本です
本屋の店頭でご覧下さい
Amazonでも紹介あり
「隣りへ 38度線の北」装幀 浅葉克己 

2004 [いのち]

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2004年の2月だっただろうか。彼は茨城県の海沿いの町で生まれた。何匹の兄弟がいたかは判らない。親に逸れてか路上で車に轢かれ、口から出血してうずくまっていたのを近くの獣医に拾われた。彼は数日間口元を縫う手当をされ、その病院にいた。長男がその話を聞いて湘南の海辺の町迄連れてきたのはそれから一週間後くらいだった。その街を去る時、親犬に似た犬が見送っていたという。親犬は仔犬が轢かれた路上の近くで暮している犬だったという。獣医師は仔犬の親がシェパードと柴犬の可能性が高いと言ったという。その仔犬の誕生日は推測して2004年2月14日とした。我が家についた彼は両掌に乗るほど小さく、両耳が垂れていた。テラスの硝子に映った自分の姿を見て、首を延ばし小さな遠吠えをした。
その遠吠えが何故か哀しく聴こえた。
今も彼は車のサイレンや、拡声器の音に反応して遠吠えをする。
両耳は一歳を過ぎて大きく伸び上がる様に立った。
散歩の時の車や電車の振動にはトラウマの様に反応する。
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数年前に蓮を貰い植え込んだ壺から緑の苔がついた。壺は水が漏れる様になったらしい。大きな罅がないので素焼きのような素材だからなのだろう。冬でも芽のような苔の姿が朝陽に光る。
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千葉の美術館で見た彫刻家のアトリエの内容の展示で、路上の蝶や虫達の展示が興味を惹いた。路上に息絶えた虫達は、静かに土に帰る。
皿の上では土にもなれないだろうが緑の輝きが、絵の具では表現出来ない美しさだ。
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脚を踏ん張る姿が、潔いと思って使っている小卓。動物の脚からヒントを得て金属で作られた道具が、木製に変わったり、陶器製になったりとしたのだろうが、金属時代の切れ味を残すかたちが念われる。
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仔犬だった頃から彼の大好物はパンの耳だ。日に干してかりかりになったものを赤い蓋の容器に入れてある。思い切りジャンプして放物線を描くパンの耳の欠片をキャッチする。
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この町に来て知った、ナギという神聖な植物の実と、プリンセスミチコと言う名の薔薇の存在。
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椿は花も好きだが、その葉に魅力がる事を数年前から気づいた。
葉の光沢が影にも出ているような気がするが、それはないだろう。
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淡い午後の冬空に溶けるような雪の富士を見た。左手は矢倉岳か、足柄峠を越えて古くは坂東への道があった。
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光の中へボールを蹴る
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この町では結構赤いポストをまだ見かける 現役なのだろうか

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