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九月三日 [人]

模倣問題で世間は揺れている。デザインの模倣に関しては古くから争いがあった。そもそもオリジナルとは何なのだろうか。世の中に存在するもので占有が限られているものは存在するんだろうか。人は模倣して文明や文化を発展させてきた。オリジナリティを出すために数年間の時間を費やそうと、一瞬のアイデアで何かを生み出そうと、創作の時間がその保証にはならない。しかし国際的にオリジナルであることを証明する機関があっても、それがすべてではない。
ことが起こって、どう対処したかのプロセスが見えてこない。コピーであるとする相手が要求したことは何だったのか。創作のオリジナルは間違いないと制作者側がいいながら、家族や仲間のために今回の受賞は辞退するとは、自主的に制作者が本音としていったことなのか。
オリンピックは国家の祭典から、企業の祭典になって久しい。企業の経済力を伸ばす祭典が個人の家族や仲間の人権を侵害していいものではない。

経済という魔物が、泥沼化する人間の欲望を前面に噴出させているように感じるニュースだ。
専門家たちにはオリジナリティが守られているとの主張が、一般大衆には一見して模倣に見えるという主張の勢力が強いので今回の採用を中止とした、という主張は何か甘すぎる。
専門家集団は、少数派であっても何故その主張を強め持続しないのか。あまりにも悲しい。
世間が認めないから、中止にした。制作者が言ったから幕を引いた。
なんとも無責任体制の決定だ。おまけに新しい応募の条件は門戸を広げ応募者の数を増やすようにするという。なんとも専門家という人たちを見くびった決定だ。応募が多けりゃいいのかな。応募作品全部を採用して変わる代わりにマークを変えたらどうかね。この際。ある企業が数秒ごとにロゴが変化していくスタイルの実験をしたのを見たコトがある。今の時代複数のロゴマークでも違和感なし。おまけに印刷物はすべて止めて、ウェッブ上のみで展開なんて言ったら画期的。損失コストも激減するし。


日本のデザインや文化に対する底の浅さを感じ、嫌になるニュースだ。

撥.jpg

長唄用の三味線の撥。プラスティックなのだが実用的な機能は不明だが、その素材の色と透けた厚みからくるグラデーションが美しい。象牙の撥に比べコストは安いが美しく感じるものは好きだ。模倣の一つの仕組みを見る思いがした。

今回の模倣問題のデザイン、人間が考える問題は美しいという一つの回答だと思う。
作曲者が別人で大騒ぎになった事件、その曲が美しいかより、人が問題になった。ものよりもコトが重視される時代。今回のデザイン類似事件も人間同士のコトの処理が重要なのだろう。
デザインの類似は、今に限らずたくさん発生する。それをどう処理してきたのか。これからどうしていくのかが問われるニュースと深く思った。

追伸:首都の代表が問題の模倣事件のデザイン処理がされた紙袋を持って、紙袋の機能は無くなっていない。この紙袋は最大限に有効に使います。といっていた。何かおかしい。機能は袋だけで無く、デザインにもあるのだろうに。何か情報時代に袋はまだ使えますと言ったその姿に違和感が残った。この袋に「これは事情がありデザイン中止となった袋です」とでもシールをつけるのだろうか。




     

      ものまね止めたと日本人また萎縮      むおん






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