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五月二十六日 [海]

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大正15年(1927)5月26日 湘南大磯中丸漁場で、二月に鰤4000尾が紛失したため、網元が同心坊だと訴えたが、漁師は口実だと否認したことの取り調べが行われた。
同心坊とは、銚子市教育委員会発行の銚子の民話からの引用によるとによると、以下。

銚子の漁師達は、海坊主(体の大きな一種の怪物)というものに、船を出すと海を荒らされて漁が出来ず、大変困っておりました。そこへ旅の僧の同心坊という者がきて祈りました。
すると、どうした訳かそれ依頼海坊主という怪物が現れなくなりました。そのお礼として漁師達は同心坊に魚を与えました。それ以来、漁師達が船主にかくれて漁獲の一部を自分達の物とすることを「同心坊」というようになりました。

※「同心坊」の意味については、上のほかに「堂普請」(寺院の普請)がなまったという説もある。つまり、寺院の普請をする費用として魚類を寄進したということである。

ということだそうで、船主に隠れて漁獲の一部を自分たちのものとしたり、それを近所のものに配ることが行われたのを、湘南の漁師さんたちも同心坊といった。この言葉は全国どこで発生し広がったのか興味がある。寺院の普請をするする費用というのも、坊の字を含む言葉から意味付けられたのであろう。

「心を同じくするという同心」では、同心は、元々中世後期の日本において「一致団結」を意味する語として使用され、「一味」や「一揆」と同義語であった。戦国時代に入ると、戦国大名の家臣(下級武士)たちは、主家への平時の奉公や軍役をこなすために相互に団結して事に当たるようになった。そのため下級武士を「同心」と呼ぶことが一般的となり、後の江戸幕府も幕臣の役職名として「同心」の称を採用したのである。一致団結して仕事をしないと、板子一枚下は地獄の漁師にとって必要な行為が、同心坊だったのだろうか。
ある程度の、同心坊はゆるされるが、4000尾とは多すぎる。大漁の鰤は数万尾もこの時獲れたのだろうか。なんとも同心坊という言葉に惹かれる。大漁の漁獲の時代の海岸での「おめこぼし」そんな光景と、坊主の姿と海のある光景がだぶる。海坊主とは何がその正体だったのか。

夏の海がその答えを知ってるだけだった。

五月一日 [海]

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桜鰤と言う言葉を知った。桜の咲く頃の淡白な桜色の身をした鰤だと言う。桜鯛と共に季節の便りだと思う。50年位の昔、春鰤が何千尾も、湘南大磯の港にもあがったという。

三月十三日 [海]

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昭和2年3月13日 神奈川県の湘南大磯地区の山には三寸、市中は二寸ほどの積雪。山には凡そ9センチ、麓には6センチの春の積雪があったという。
春の雪は水分を含み重くなり、咲いている草木に覆いかぶさることが多い。
平成27年のこの日、田口ランディ著「坐禅ガール」を読んだ。山ガールや、撮り鉄ガールの類の物語かと思ったが、少し重かった。
3点が記憶に残った。

1点目、ネオテミーのような顔の出現、幼生成熟、幼児のままのような形態のまま成熟してしまった生き物。その小さな顔に対して目の占める割合は不自然なほど大きく、すっととおった鼻筋は美しいカーブを描いて割れた花びらのような唇に続き、鰓骨のない球体のような頰、ふっくらした涙袋は見事に左右均等で、愛くるしい子鹿のよう。彼女はリンコという名だという。

2点目、混沌の神の話。中国の面白い逸話で、混沌という神がいたという。混沌には顔がなかったという。他の神様が気の毒がって混沌の神に、顔を彫ってあげた。
そうしたら混沌の神は死んでしまった。混沌はすべての始まり、無分別だから、何かを刻んだ瞬間に、それはもう混沌でなくなってしまうからだそうだ。アニメ「千と千尋の物語」に、「顔なし」という神が出てきたのを思い出す。このヌッペラ坊の顔なしが、好きだ。何か悲しげで、言葉も喋らない。顔なしには能面が似合う感じがなんとなくした。能面も不可思議な顔で、感情が不明だからか。

3点目、アングリマーラという千人の人間を殺してその指で首輪を作った男と、釈迦が出会う場面。日本ではなじみ薄い仏法説話だそうだが妙に気にかかる。
アングリマーラの物語、ネットで検索すると以下、、、、
ある日、舎衛城の郊外の路上において、アングリーマーラはお釈迦様に害心を持って近づき、そしてこう言いました。
「沙門よ停まられよ。」と。お釈迦様は言いました。「わたしは停まっている。そなたも停まったらどうか。」と
アングリーマーラ、「あなたは歩いているのに停まっていると言い、わたしは停まっているのに停まっていないと言う。それはどういう事か。」
お釈迦様、「アングリーマーラよ、わたしは生きとし生けるものに対する害心を捨てて停まっている。しかるにそなたは生きものに対する自制の心がない。それ故にわたしは停まり、そなたは停まっていないと言うのだ。」
このお釈迦様の言葉に、アングリーマーラは痛く心を打ちのめされました。これまで悪逆の限りを尽くしてきたアングリーマーラの心に、良心と悔悟の念が目覚めてきたのです。彼は即座に武器を捨て、お釈迦様に出家を願ったと言うことです。アングリマーラはどのような人間にも潜む存在のように思えてきます。

三月五日 [海]

ダンバー数に関して、人間が平均150人の人々と親密な関係や、お互い会うなどしてコミニュケーションを執ることができる条件には、脳の能力と、時間という二つの条件があるそうだ。フェースブックなどや、携帯で数千人の登録があったとしても、1日24時間の制限の中でコミニュケーションを取る時間が余るような人はいないだろう。親密な関係の友人は数人である方が、密度も、会うことの回数や時間も増え充実する気がする。ビジネスや宗教の世界では何か数百万、数万の人と個人がコミニュケーションをとれる世界は出現しているような気もするのだがどうなのだろうか。
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本日快晴、桃の花や白木蓮がご近所で満開に近ずく光景。

昭和17年三月五日 湘南大磯にて鰤大漁一万尾の水揚げ、春鰤の青き海に跳ねる光景が見たかった。

二月二十四日 [海]

江ノ島と茅ヶ崎の烏帽子岩方面を望遠レンズで撮った。35ミリ換算で1000ミリクラスだったか忘れました。500ミリのレフレックスレンズに二倍のコンバータ使用だったか。最近ではシネレンズで1300ミリ相当の画角も狙えるが手持ち撮影は難しい。江ノ島まで撮影地点から何キロあるだろうか。はるか手前右手に茅ヶ崎の烏帽子岩が見えるが、昔は姥島とも呼ばれていたという。この姥島付近の漁業権を巡って伊豆の漁師と、茅ヶ崎の漁師が争ったという江戸時代だったかの話だが、裁きがあり茅ヶ崎の漁師が勝ったという。その裁きで茅ヶ崎で詠まれた和歌が決め手になっっという。今では直線距離では圧倒的に茅ヶ崎が姥島の沖で近距離あることはわかるが、漁業権は昔は違う判定が働いたのだろう。島を巡り国境も定める、そんな時代感覚も何か時代遅れの気がするが、世界中で国家をめぐる紛争はまさに戦中、戦前の様相が濃い。日本も戦後という言葉に安穏とするのでなく、今新たな戦いの、「戦前」に生きていることを自覚しなければとも思う。数ヶ月前に読んだ「残酷平和論」鴨志田恵一著を思い出す。『戦争と平和はコインの裏表のように一瞬でひっくり返る。しかしコインには裏表だけではなく側面も必ずある。それは戦争でも平和でもない「中間状態」であって、実はこの中間状態こそが歴史の本体であり、このことをもっと積極的に考え、、、、コインそのものが国民なのですから、もっと賢く現実的に生きることを真正面に考え、偽政者たちに政治や制度作りをずっと任せてきた結果のことと』『コインの側面を厚くして、時代を第三の側面が長続きするように努力する。』何か救われる本でした。
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二月二十一日 [海]

鳥取の岩美網代港から、水蟹を取り寄せて食べた。刺身かゆで蟹が美味だが、火を起こして焼きガニで一杯。寒さも吹き飛ぶ、甘味な世界。水蟹とは脱皮したての松葉蟹、身が柔らかく水っぽいので、松葉蟹の高値より、庶民価格。日本海の厳しい波を思い浮かべ感謝。最近は、若松葉ガニと名を変え全国へ奮闘中。三十年以上前の冬、鳥取岩井温泉で、蟹に出逢った。そして忘れられないババちゃんの鍋も食べた。
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ババちゃんとは、コラーゲンたっぷりのアンコウの様な深海魚。


みずがにのあまさ満ちたる炬燵かな 無音

二月二十日 [海]

明治26年2月20日大磯松招閣旅館(正しくは招仙閣)にて、福沢諭吉58歳は、大磯に海水浴場を開いた松本順を讃え、「大磯海水浴場の恩人」を避寒しながら執筆する。司馬遼太郎の「胡蝶の夢」では二人の幕末の蘭学医の生涯が描かれ、その一人が松本順である。明治18年に大磯に海水浴場を整え、東海道線が明治20年開通し、8年間で大きな賑わいを見せはじめた時代、福沢は町の恩人の名は早くも忘れはじめていると書いている。
長崎時代、日本の写真の黎明期に、自ら写真のモデルになった松本順の姿は医者には見えないたくましさを感じる。蘭学から医術や様々な文明を学びとった時代の日本、乱世だったとおもう。今の世の乱世とも大いに繋がっているのだろう。彼は徳川14代と15代将軍の御典医であり漢方医だったのが、幕末オランダ医学を学び、後に大磯にも英語学校を開こうと画策していた。中国南部からの漢方医学の輸入、阿蘭陀文化、英語圏へと大きな時代の変遷を感じる。
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大磯北浜海岸にある兜岩、漁師の方々は大潮鼻と呼んだ聖なる岩、しめ縄の結界こそないが、新しい船が海に入る時、大潮鼻の周りを船で周り一升瓶のお神酒を捧げ、大漁と安全を願ったという。大漁といえば、大漁につきものの「ドーショー」という名の海中に潜り魚を獲るのが上手な鳥が、昔はたくさんいたという。この鳥の生態をいつか知りたいと思ったことがある。片瀬江の島の漁師作家の方が書かれた本にも「ドーショ」という名の鳥があった。御本人に手紙を書いたが鳥の名の由来はご存じないという。全国でドウショ又はドーショーと呼ぶ鳥の存在はあるのだろうか。
名前は地方により異なっているのが当然なのだが、それぞれに関連はある。推測でオオミズナギドリという伊豆七島、特に御蔵島に生息する水鳥がドーショーに近い気がする。御蔵島では江戸時代からこの鳥は貴重なタンパク源でもあったようだ。鳥の食用の話は湘南の地でもあったようだ。
この鳥の飛行コースは島から、三陸沖まで漁に飛び立つという話も読んだ。島の水鳥、島嶼(トウショ)からドウショになったのではないかと一人思い込んでいる。そして気が付いたのが、島と鳥の近似性これのが深くお驚き家中の辞書を開いてみた。

どーしようもない鳥何羽かが冬の海  無音

二月十八日 [海]

久しぶりに本棚から抜き取った「詞集たいまつ1」むのたけじ著から、

39『青年を見てその国の将来を占うより、その国の親たちが青年をどう扱っているかを見て、その国の将来を占う方が、ずっと正確に的中する。』

38『脱皮しない蛇は死ぬ。脱皮しない人間は他人を死なせる。』

327『美しい子を望むなら、親が美しくなることだ。子供を幸せにしたいなら、まず親の自分が幸せになることだ。不幸な親のもとで、幸福な子供は育たない。』

429『ほんものの愛国心は、他国への敵愾心を必要としない』

437『みてごらん。悪事を働いている国家の国民は、みな似たり寄ったりの顔になる。』

550『簡単に咲く花は、簡単に散る』

569『ヨコに広がらないものはタテに深まらない。タテに深まらないものはヨコに広がらない』

602『有名なる者たちの無力なるときは、無名なる者たちの有力なるとき』

603『嵐はたいまつを消すことができる。たいまつの炎々と燃えるのも嵐の時だ』

昭和56年1月発行 むのたけじ著 評論社刊
この時代、自分は何をしていたのか考える。今自分は、何ができるのか。

嵐はたいまつを消すことができる。今あの時の、たいまつは掲げられ継承されているのか。今のたいまつは何を照らし出し、何を燃焼させようかとしているのか。たいまつの炎々と燃えるのも嵐の時だの嵐とは、何か世界が確かに今嵐の中にいる。この国も嵐の静けさを飽きて嵐を呼び込もうとしているのか。嵐は平和という日常があってこそ嵐が見える。
嵐の前の静けさという、不気味さを感じる昨今に記す。
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遠い海を見つめると、大きな声で叫びたくなることもある。海への叫びはコダマとなって帰ってはこない。江ノ島が今日も亀のように陸に向かって泳いでいるようにみえる。

昭和2年2月19日より李王同妃・西小磯御別邸に御滞在。西小磯御別邸とは、伊藤博文邸の滄浪閣のこと。伊藤公亡き後遺言で李朝最後の皇太子李王こと李垠殿下に譲られたという。妃殿下の正子妃は滄浪閣から西へ1キロほどの梨本宮別邸で李垠殿下との婚約発表の新聞記事を読まれ、驚かれたという話が残る。数年前赤坂にある李垠殿下夫妻の本邸が赤坂プリンスホテル解体の夜景の元に残されて入り写真を見た記憶が蘇る。

昭和2年大磯の水飢饉。関東大震災で大磯と三浦半島西部のある地域は1.8メートルも土地が隆起し水切れとなり、別荘も旅館もがら空き、地震当時津波は小田原方面から鎌倉方面へ横に大きく移動するのを見たという。

一月二十二日 [海]

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昭和22年のこの町で撮られたカラー写真。撮影者のアメリカ人は、この後、箱根迄行ったという。
現在の大磯町の鴫立庵を左手の樹木の奥に望み、東海道ルート1を台の坂に差掛かると、坂の上に富士の姿が正面に見える。自転車の背中の人の服装から真冬のようだ。道路脇左右に小さく人影が見える。何軒かの家の前に門松飾りのようなシルエットも、正月か年末の光景だったのだろうか。がっしりとした自転車は、数年前に築地市場で何台か見かけた。知人が中国でこの自転車を買って日本に持ち帰ったという話を聞いた。荷台の魚は、鰤なのだろうか。68年前の写真と今も変わらぬこの場所の光景がこの町にある。

一月十九日 [海]

昭和7年大磯海岸の砂が、水道の濾過用に最適と、群馬県結城水道会社から大磯役場に申し込みあり。
この町の海岸は、さざれ石と呼ばれる小石で古くから有名だそうだ。荒波に揉まれた、小石から砂まで様々な姿が浜には、分布しているのだろう。明治時代に日本でも最初の頃と言われる西洋式の海水浴場があった照ヶ崎周辺の砂浜の砂は、海から上がっても身体の砂がサラサラとよく落ちたという。砂粒の粒子と、波の浸食で砂の表面が滑らかになっていたからなのだろうか。今の海水浴場がある北浜海岸の砂は、黒くてサラサラ度が低いと聞いたことがある。水の濾過にはサラサラの砂のが適していると思うのだが、専門的にはどうか?白砂青松という言葉は、日本の西側の海岸で見られる光景が多いそうだが砂の成分の問題なのだろう。
昭和11年大磯の海にわく鰤群来襲の鯨波、張立開始。鯨波は「くじらなみ」と呼ぶのだろう。鯨が通った後の大波とある。また鬨の声「ときのこえ」の意味であるとも。鯨波は「げいは」ともあった。
沖に鯨波が立つ季節、潮に運ばれてくる鰤の大軍を迎えるために定置網の準備に備えたのだろう。
此の地方は、「春鰤」と言って寒鰤より季節がずれた鰤の大群でかつては潤ったようだ。春鰤という名は近所の魚屋で初めて聞いた。10,000匹の鰤が網に入ると沖の船に、1本の大漁旗が上がり、3本の大漁旗が上がり30,000匹の大漁の報せをくれた年もあったようだ。今は昔の話となっているのだが。
大漁旗を「まね」と此の地では呼ぶそうです。連想では、「大漁を、招く」からか、「マネー」という直喩しかうかばないのですが。
マレビトから、マネウオになんては飛躍しすぎですね。
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画像は昨年の暮れに求めた木の杓文字、小波のような刃の跡が気に入りました。
昭和7年梨本宮両殿下お成り、大磯西小磯別邸。去る昭和5年一月十七日総工費数万円にて和洋両舘を建築。

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