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七月二十二日 [海]

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アオバトたちが滑空して岩礁に着陸寸前、鳥たちの姿は流線型の矢じりのように、羽を窄め頭を一直線に揃え、弾丸のような形になる。一斉に弾丸のような、最新型の新幹線の頭のような姿で数十羽が着陸態勢に入る。尾羽をフラップのように広げ翼を体に煽るように広げ岩礁に降り立つ。この様々な仕組みを彼らは何千年、何万年かけて習得したのか。
素敵な飛行を見て胸がワクワクしてくる。真夏の海の朝に撮影。

昭和24年国鉄主催の海浜カッパ列車、400人を乗せて湘南大磯に到着。歌手貴島正一さんたちの歌とともに海岸でのど自慢大会、遠泳大会催しで楽しむ。

七月二十一日 [海]

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昭和2(1926)年7月21日 画家佐伯祐三が大磯に借家する佐伯米子夫人に手紙を出す。二回目のパリ行きの計画が書かれ、大阪の大丸でチケットを購入シベリア鉄道でこの年、8月には親子三人で旅たち翌年の8月パリの病院で帰らぬ人となった。

佐伯祐三は89年前の夏、アオバトを見ることがあったのだろうか。大磯に来ても巴里への洋行準備で忙しいため空を仰ぐことは無かったのではないか。

七月二十日 [海]

海にアオバトを見に出かけた。午前5時でも明るい、海も人も総てが明るい光の中にいた。
アオバトの足元の羽は逞しい鷹のように斑の姿が美しい。何よりも翡翠のような嘴はもっと美しい。海は氷のように輝いていた。鳩たちの羽の色は森の色。森が海へやってくような光景。今朝は二百羽近くいただろうか。
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昭和7年(1931)湘南大磯では天国浴衣地を平塚の飯島デパートにて発売。同時に八重子帯も注文殺到。この年の5月の坂田山心中の反響が凄まじかったよう。天国夫婦饅頭なるものまで発売とか。

七月十八日 [海]

文禄四年1595年7月18日 豊臣秀次の謀反征伐のため15日江戸を立った徳川家康に宿陣したとある。関ヶ原の戦いの五年前とのこと。街道には多くの歴史が残りこれからも蓄積されるのだろう。

明治21年 大磯海水浴場の男女混浴禁止。女浴場と男浴場の高札が海に立ち区分けされた海で泳ぐことになった。
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昭和45年大磯ボール開業(36レーン)3年後には閉鎖、西友ストアーとなり10年後に閉鎖、交通の弁が悪いロケーションのためか。今は空き地。

七月五日 [海]

明治42年7月5日 遅れていた工事が完了し湘南大磯宿の本陣付近にできた大磯座の杮落とし。
開業には女団十郎と呼ばれた市川久女八が出演。大磯宿の六人が相談し作ったという。当時火薬廠のお雇い外人なども壇上に立ち公演し、政治家の演説会もあったという警官詰め所もあり300人を収容したというから凄い。当時使われた拍子木を見せてもらったことがある。

拍子木の明治の夏に幕を開け  無音

昭和7年の今日、天然式釣り堀30坪大磯高磯浴場に新設工事。
昭和18年大磯北浜海岸にバンガロー34棟、付近に大岡昇平が居住し、海岸に西湘バイパスができ始めると都内成城に引っ越した
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ピントの合わないカメラのファインダーを覗く瞬間が何か好きだ。
マニュアルであれ、オートフォーカスであれシャッターを切るのが好きだ。
ある梅雨の日の西湘バイパスにて。

六月二十八日 [海]


門坂流さんの銅版画作品『荒波』を眺めています。うねる一本一本のビュラン刀による線が銅板の上を滑らかに走る。研ぎ澄まされた神経の緊張感のような命の線が渦巻く様は好きだ。明るい光の束の部分から、闇に近ずく影の部分へと作品は掘り進んで行くという。昨日奄美大島の泥染めの工程を記録した映画を見た。男たちが樹木と田の土と格闘しながら何度もなんども
染めの工程を繰り返す。力技の世界と2ミリも狂えば糸の絣が布にならないという繊細な模様のための気が狂うような繰り返しの工程、女性たちによって織られた緻密過ぎる絣の文様。人間は絵を描き、模様を生み出すために祈りのような作業を繰り返す。何と不思議な生き物だと思う。畝る線が海となり、大地の声となる。

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昭和7年湘南大磯、海水浴場開きの宣伝ビラ50000枚刷り上がる。海開きは7月2日、ポスター1000枚はデパートに貼布。
昭和11年海岸の海支度。海水プールに初の水入れ。総水量2500石。

六月二十六日 [海]

湘南大磯南下町で漁業者数名が大磯沖20丁の場所で、海獣を捕獲する。海鹿を捕獲したもには、金十銭の賞金が出たという。金十銭の賞金、明治の何時ころの話だろうか。海鹿とは、「アシカ」の事を指すとすれば、毛皮や脂が目的で漁を行ったようです。
http://ameblo.jp/oldworld/entry-10011704309.html
アシカは「海驢」や「葦鹿」とも書くようですが、海鹿堂(あしかどう)や海鹿島(あしかじま)という地名もありますので、アシカとも読むと思います。ちなみに、ニホンアシカの大きな繁殖地だったのは現在も話題になっている「竹島」なんですよね。絶滅の経緯については、こちらが参考になると思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%A2%E...
潮の流れで、相模湾にもやって来ていたのだろうか。

ウイキペディアでは、江戸時代に書かれた複数の文献においてニホンアシカに関する内容が記述されている[4][26]。シーボルト『日本動物誌』には、ニホンアシカのメスの亜成獣が描かれている。「相模灘海魚部」(彦根城博物館所蔵)にも、不正確ではあるがニホンアシカが描かれている。明治維新頃の日本沿岸域におけるニホンアシカの生息数は、3-5万頭以上と推定される[12]。

1879年(明治12年)に神奈川県三浦市南下浦町松輪の海岸で捕獲されたメスのニホンアシカを描いた正確な絵図が、『博物館写生』(東京国立博物館蔵)に残されている。少なくとも1900年代までは日本各地に生息していた。しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くの生息地で漁獲や駆除が行われ、明治40年代には銚子以南から伊豆半島の地域でみられなくなり、同時期の1909年(明治42年)の記録では東京湾沿岸からも姿を消し、記録がある相模湾、三河湾周辺の篠島・伊良湖岬[9]、瀬戸内海[4]の鳴門海峡[27]などの日本各地に生息していた個体群も20世紀初頭には次々と絶滅に追いやられ、その棲息域は竹島などの一部地域に狭められていった。アシカ漁日本各地で行われていたのですね。

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ドイツのシュナイダー社のレンズで撮った夏のシーツの海。綿の海。

昭和53年(1979)大磯の旧吉田茂邸で、日米首脳会談開催、大平首相とカーター大統領。
警察官2500名が警備、ロングビーチの臨時へリポートに離着陸。四時間余りの会談。

六月二十五日 [海]

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アオバトから一言申し上げます。私たちアオバトが毎日飛んでくる海岸のある此の町で、町会議員選挙があるんだって。選挙用の公示板に19人の候補者が並んでいます。顔写真は今を反映して色々。横顔、真正面、上目つかいの目の顔、眠そうな顔、さすがに後ろ向きはいないけど、なんだかなーというのもあり、見ていて楽しい。隣町の人口の十分の一なのに、議員数は隣町の半分の定員とか。一番掲示ポスターを見て驚いたのが、そのポスターの印刷所の住所、鹿児島、京都、東京、名古屋と多彩。ネットで安く印刷できるのは判るが、町の印刷屋さんに頼んでいたのはたった一人の候補者。隣町の印刷屋に頼んでいる人も数人いるが。
印刷コスト抑えるのは常識なのか。町の議員さんて何をするのかわからないけど、昔も今も選挙カーでがなり立てるのだけは止めてほしい。印刷はネットで町への騒音は昔も今もの旧式。
このバランスなんだかなーですね。
うるさい町には私アオバト暫くやってくるのを躊躇することにしました。

明治43年の今日、大磯小学校にて1500余人の前で、東郷大佐の日露戦争日本海海戦の実践談。
東郷大佐は、東郷平八郎その人であろう。明治38年5月に日本海海戦が起こっている。今から100年の昔。日本海にもアオバトは海水を飲みに降り立っているのだろうか。
平成27年6月25日 湘南地方梅雨の晴れ間、今年の梅雨は雨量が少ない。集中豪雨は多いが。

六月九日 [海]

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海の青さと、アオバトの緑の羽根の深さに、何か繋がる世界を見た。
糞掃布と、ボドという布の世界に何か底知れぬ繋がりを知って、涙が出た。

今年の四月小田原で、ラオスの布に命を吹き込んでいる一人の日本女性の展示会があったそうだ。
昨日、ある場所で、一枚の紙切れを昨日いただきハッとした。「糞掃布について」と書かれたちらしには、『畑で綿を育て糸を手で紡ぎ布を織る。畑で藍を育て織った布を藍染めにする。藍で染めた布を服に仕立て自ら着る。中略 着古されてボロボロになった布は弱くなり実用性は低くなりますが、時を経て益々美しく見えます。村の人は実用のために作っているので着古しボロになると雑巾のような役目を最後に果たし惜しげなく捨てられていきます。
私はそれらがもったいなくて 捨てる前の布を集めました。丁寧に縫い目をほどき、痛みの度合いを分類し 新たに手縫いで繋ぎ合わせ新しい布を作りました。
糞掃布をつくる作業で糞掃布にさえできない端切れが出ます。その端切れで私は雑巾を縫い、その雑巾で床を拭きます。穴だらけになり最後は糸が溶けるようになります。中略
その溶けそうな糸が光に透け 輝き なんて美しいのだろうと。
約三メートル四方ある糞掃布、私は死んだらその亡骸をこの布にくるんでもらって土に埋めてもらいたいというのが夢です。』と綴られています。
襤褸という字もなぜか大好きです。ボロまたは、ランル。糞掃布とは、フンゾウエと読み
ごみの中に捨てられたぼろ切れの布でつくった衣。十二頭陀行の一つで,初期仏教の修行僧は執着を離れるためにこれを身に着けていた。というそうで染織家の志村ふくみさんが、エッセーで糞掃布の残欠に出会った時のことを書かれていたのを思い出します。

その布で亡き人を包むことと対照的に、否同じ世界で、ボドという一枚の布の話がありました。ラオスの糞掃布と、青森のボドという一枚の布のあまりにも深い世界に我ながら驚いたのです。

『物には心がある』と題した今は故人となられた田中中三郎の著書の中に、生命の布「ボド」のページがありました。長年使い古された麻布を厚厚として刺し綴ったボドは、寝る時に敷くが、女性がお産をする際にも使用したという。青森地方の昔の出産は座産であり、この布の上で赤ん坊を産んだという。ボドは祖父母や父母の使い古した着物の布を丹念に重ね、刺し綴ったものである。それこそ何代にもわたり布が重ねられてきたのである。子供はひとりの力で誕生するのではない。父母、祖父母、それに連なる先代があってのことである。十代さかのぼるだけでも、ひとりの人間の中には千人以上もの人たちの血が流れていることになる。中略
ひとりの人間の誕生の陰には、数え切れないほどの誕生と死がある。その人間の誕生を見守り、確認するためのボドなのである。

中略 「ボド」という布を、当時の人々が大事にしたのは、単に物が不足していたからではない。そこに大いなる意味と価値を見出していたからこそ大事にしていたのだ。貧しかったからではない。物質的には不自由でも心は豊かだった。以上『物には心がある。』より引用

布に纏わる、二つの世界。時間軸ではラオスの布は今も少なくなっているとはいえ実用的に存在する世界、青森では布の存在は消えたが心は残っている世界。遠い人類の布との歴史の一端を垣間見た今朝でした。


六月四日 [海]

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アオバトを門坂流さんのエングレービング銅版画の上に飛ばせていただいた。ビュランという彫刻刀で銅板に直接線を彫り込み、インクを線に押し込めて印刷するエングレービングという技法は限りない根気と、神経を極度に張り詰める作業で出来上がる作品だ。その掘るという作業は何か神へ祈るという所作にも似てはいないだろうか。遠い昔学校の授業で銅板の授業があった。高価なビュランという彫刻刀まで買った。外科手術のメスにも似た刀だった。柔らかな銅板を滑らかに掘る作業は、ビュランを絶えず研ぐという所作で進行した。自分の好みは手作りの縫い針で作った、ドライポイントという技法のが好きだった。ドライポイントでは削られた銅がバリとなって掘られた銅板の表に表れる。そのバリにインクが絡みなんとも不思議な滲みを生じる。エングレービングは紙幣の印刷に見られるような、揺るぎない線で構成される。
何かビュラン刀のあのずっしりとした重みを思い出してしまった。

アオバトは今朝も夏の海へ。

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