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八月二十六日 [かたち]

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奥州は角館の武家屋敷の井戸から、釣瓶のシルエットが何か気にかかった。この角度は釣瓶のo付いて落ち付いている角度でもあるのだろうか、何か気にかかった。水差しの水を注ぐ一歩手前の角度でもあるような緊張感。刀を構えその静止した息の詰まる角度でもあるような。井戸の水がどのくらいの深さか覗かなかったが、塀の脇を流れる透明な水のように綺麗な水が井戸にもあったのだろう。ミョウガの葉が茂り根元に薄黄色のミョウガの花が見事に群生し咲いていた。
角館は枝垂れ桜が有名。木の枝が地面の通りまで垂れ下がり地上をするように葉が茂る光景が美しかった。


   


    桜葉や夏の地を這う 角館            む お ん




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    みずすまし蒼き夏ゆく紳士哉       muon





五月十九日 [かたち]

二両編成の御殿場線が国府津の駅から沼津に向けて走って行った。天空から御殿場線を見下ろすと大きくカーブして山あいに向かう線路が見えるのだろ。なだらかな登り勾配と大きなカーブ、撮り鉄さんには、堪らないポイントではないだろうか。線路の切り替えポイントが複雑に交差する。御殿場線と東海道線が交差する歴史ある古い駅。この日俄か「撮り鉄」になってみた。
東海道線上りホームより。二両の後方、回送列車の長い車両の頭と尻尾が大きなカーブで両方見えた。

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昭和6年肺病には、アワビコールと発明者の白根敏郎氏の広告。アワビ研究所は湘南大磯にあり、支店が東京本郷、名古屋、台湾台中にあった。短期剤はアワビシンが効果的と同広告から。昭和8年昨年に続き、大磯小学校では夏休み廃止。なぜ夏休みが無くなったのか。夏休み返上で何を行った年なのだろう。戦争の足音と関係があったのだろうか。

五月十五日 [かたち]

原宿駅の山手線ホーム階段付近で、不思議な建造物を見た。チョコレート色の時代を帯びた鉄板と、同色の鉋。中は張り子のようで空っぽの音。ダクトから何かか。
建築のカケラが、出るときには、欲しいと思った。
いつの時代のものだろう。
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五月三日 [かたち]

アルパカの顔のような、首から上のような黒松の新芽。
空に向かって気持ち良くのびのびと、伸び伸びと、頭をあげる。
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昭和6年5月3日 湘南大磯と平塚の境にある花水川の河口に出来た、湘南野球場開場。
県知事ほか150名招待にて観客2000人。東京クラブ対セントポールの試合。この時代は野球用語は英語でも大丈夫な時代だったのか。翌年の五月坂田山心中がこの町を騒がす事件となる。
現在98歳になる当時東京におられた方が、心中事件を聞き自転車で友人と二人自転車を飛ばしてこの町に来たという。当時16歳多感な少年の心に何を心中事件は残したのだろうか。

昭和11年夕網で春鰤300尾、相場1円90銭。98歳の老人が20歳だった頃に満州牡丹江に飛行兵士として派遣されたというお話を数日前に聞いた。揚子江と同じく牡丹江は大河の名であり、都市の名でもあっということも数日前に知った。

昭和14年十人以上産んだ子福者千名を表彰。大磯署管内は4名の表彰という。千名は神奈川県の人数か。「産めよ増やせよ」という人間の増産体制を思い浮かべてしまった。「子福」とは美しい言葉の響きなのだが。子沢山から一人っ子の時代、どちらが本当に豊かだったのか。

98歳の老人はノモンハンの地で生き残り、その後南方戦線へ駆り出されたという。戦地に一年いると恩給が三年分で計算されたというお話を聞いた。老人が22歳の時ノモンハン事変が起こった。その二年後真珠湾とフィリピンへ機影が向かう姿が、、、、時代を変えた。

時代は変わって今日は憲法記念日、以下こんな経緯も今日初めて知る。文化の日との関連を。
以下ウイキペディアより、引用


新憲法は昭和二十一年十一月三日に公布された。 この公布の日については二十一年十月二十九日[2]の閣議でいろいろ論議があつた。公布の日は結局施行の日を確定することになるが、一体何日から新憲法を施行することがよかろうかというので、大体五月一日とすれば十一月一日に公布することになる。併し五月一日はメーデーであつて、新憲法施行をこの日にえらぶことは実際上面白くない。では五月五日はどうか。これは節句の日で、日本人には覚えやすい日であるが、これは男子の節句で女子の節句でないということ、男女平等の新憲法としてはどうか。それとたんごの節句は武のまつりのいみがあるので戦争放棄の新憲法としてはどうであろうか。それでは五月三日ということにして、公布を十一月三日にしたらどうか、公布を十一月三日にするということは、閣議でも吉田総理、幣原国務相、木村法相、一松逓相等は賛成のようであつたが、明治節に公布するということ自体、司令部の思惑はどうかという一抹の不安もないでもなかつた。併し、結局施行日が五月一日も五月五日も適当でないということになれば、五月三日として、公布は自然十一月三日となるということで、ゆく方針がきめられた。
公布の上諭文は十月二十九日の閣議で決定、十月三十一日の昼に吉田総理より上奏御裁可を得た。

— 入江俊郎『日本国憲法成立の経緯原稿5』、入江俊郎文書

四月十七日 [かたち]

テレビの朝の話題で『部分撮り』只今若者中心に流行中とあった。
ここ数年では、自撮り棒なるものをスマホにつけて自分や仲間と一緒に記念撮影をする光景を、
外国人観光客を含めよく見かける。その延長線で自分の足元や、指先の一部、体の一部などを撮ってスマホでネットにアップするらしい。部分撮りでは、自分の自慢できる体の一部を載せられ、おまけに誰かも特定できないからと解説があった。そんなニュースで、むのたけじさんの、書かれた「象はむかしの日本人には、想像の動物で誰も実物の全体像がわからず、部分の噂で、様々な人が全体像を想像した。その全体像はわからないものに対し、あれこれ部分の積み重ねを思考錯誤して近ずくのが良い」というようなことを言っていた。今世界は情報過多で全体の今の姿が刻々と変化して掴みにくい。そんな時代だからこそ部分から全体像を描き出す努力が必要なのかと感じた。

画像の樹木の全体像の高さは、この画像からわかりますか。その根は大地にどれくらい広がっているのかも。人は全体をわかっているようでわかっていないことが多いことも。
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ハクモクレンの花も見に変化している最近です。

四月十二日 [かたち]

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いつか隣町のケーキ屋で買った、スイーツの器が役立つだつだろうと、摂っておいた。薄緑の若草色のその器に、百均で買ったキリで穴を開けた。キリの先は摩滅して、砥石で研がなければいけないほどその先端を失った。その代わりに小さな水抜き穴が器を割らずに完成した。鉢となって利用できる事と同時にその直径を手秤で記憶した。桜の花を見に出かけても、足元の適当な苔の姿に出会わぬか、目を皿のようにして探していた。この県の中央部に水無川という河川が流れているその4キロほども続く桜並木の土手に手頃な苔を発見した。掌に乗るような毬藻のような苔は、私を待ってくれていたかのように桜の木の下にいた。ティッシュで包み持ち帰って写真に撮られここにいる。苔の緑は季節で姿を変えていくだろう。それにしても丸く小山のような姿になぜ育つのだろう。この苔球の下はコンクリートの下地だった。雨が降り桜の樹の下の木陰に流れ込む水分で育っていたのだろうか。苔は年老いた幼稚園の木の椅子の上に置かれている。

大正14年4月12日のこの日、大磯地方で桜満開。紀州徳川候邸、鈴木梅四郎邸。鈴木梅四郎氏の農園は三沢川上流にあった。この農園に植えられた山桜は樹齢百年の老木で白い清楚な花を平成の今も咲かせている。
川瀬敏郎著「一日一花」の今日の花は、碇草(いかりそう)がローマングラス瓶に活けられて。

四月六日 [かたち]

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昨日のTVの日曜日美術館は見応えがあった。琳派の特集で尾形光琳の燕子花図屏風と、紅白梅図屏風を中心に、現代に繋がる江戸からの琳派の系譜を構成し大変楽しかった。
現代作家が述べる燕子花屏風の、燕子花の花の構図がコピーアンドペストで作られている心地よさ。左右に展開する燕子花の群落の捉え方の、画角が無いと言った現代作家。コピーアンドペーストの反復する構図とリズムは、着物の柄と反物の上での反復する柄を思い出した。木版で襖の柄を繰り返して展開する世界とも繋がっていく。
畳語として、同じ言葉を重ねて展開する面白さをも連想した。
重なることや繰り返すこと、型があってその型が増幅して群れとなる世界の面白さと、力強さ。
画角の無いとは、無限に展開する縦へも横にも上にも下にも展開する世界の一部を、切り取ったというふうに理解した。フレームの外に自由に展開する世界。それは、外の世界が描かれていないからこそ見えてくる世界でもあるんだろう。見えないものこそ大切だ。
先日上野公園で、桜の花の枝と柳の枝が重なる構図で写真を撮った。フレームの中には、花見の雑踏も、老木の柳の幹も、桜の向こうの街の雑踏も写っていない。
燕子花の群落を、今そこにある生命、そこに立つ女性たちの優雅さと例えた作家もいた。
紅白梅図は、老いた男と、若き男の間に立つ、女性像の河という解釈もあった。

昨年亡くなった赤瀬川原平さんの、「我輩は比喩である」という言葉をふと思い出した。
『前略、人間だから生きていれば何か言いたいことがある。でも論理が展開できない。頭の知識はカラだ。すると言いたいことが頭というか身体からじかに、物を伝わって出てくる。「それは例えば、、、」となってくるのが比喩である」と言われていた。
画家や、写真家や、小説家は、比喩としてのモノを前に押し出して気持ちや、思想を伝えるのだろうか。比喩としての琳派の作品、なぜ現代でも受けるのだろうかと考えた。琳派とは何かより判らなくなった。

自分なりには、着物文化なり、江戸の生活をより洗練させた遊び心の一派が、琳派なのだろうと思う。現代の琳派、未来の琳派、遊び心に尽きる気がするのだが。型はあるのだろうか。

大正13年4月6日(1924) 湘南大磯の湯屋で、ライオン歯磨き本舗の花嫁が、入浴中プラチナ製の腕時計を盗まれる。ライオン歯磨き本舗の小林家の別荘は今も大磯カソリック教会のある場所にあり、そこから近くの湯屋というと、長者町松の湯か、山王町磯の湯辺りだろうか。

昭和8年4月6日 東京蒲田の松竹キネマ撮影所の移転先、敷地1万坪寄付が移転条件。湘南大磯の西小磯にある本郷山周辺の敷地が撮影所の候補に挙がったが実現はしなかった。

二月二十七日 [かたち]

数日前横浜に出かけた。地下の下に地下がある、何層にも重なる都会の断面図。image.jpg

二月十三日 [かたち]

一面の枯野、冬枯れの凍てついた草、その草は白くなった骨のように、かさこそと音を立て、冷気の中に揺らいでいる。陽炎が立ち、生成り色の草草がほのかに赤みを見せるときくるだろう。枯れ草の重なりが妙に好きな季節。
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明治43年(1910)2月13日午後より、湘南大磯にあった大磯座にて、故伊藤博文公国葬11/4日の活動写真を上映。伊藤公は明治42年10月11日午後5時20分発の下関行き急行が、大磯駅に特別停車し、100名以上の見送りをうけ10月26日ハルピン駅で暗殺される旅路にでた。
明治30年より伊藤公は、大磯の地に本籍を移し大磯町民となっていた。
昭和8年、太刀魚大漁で、大磯では八万七千尾、隣町須賀港では二十一万尾。一尾八銭で取引されたという。数十万尾の太刀魚が泳ぐ様、さぞ壮観だったろう。潮の流れが速いと太刀魚は横に泳ぎ、静かな海の底では太刀のように垂直に泳ぐため、現代の魚群探知機でも魚影が見つからずになり、幻の魚群となるという。昔瀬戸内の明石の魚市場に並ぶ太刀魚の姿を見て美しいと思ったのは30年の昔だ。
10年ほど前、出雲の博物館で荒神谷遺跡の黄金の太刀が展示された光景に出会ったとき、黄金の太刀魚が並ぶ様のようでこれも驚いた記憶がある。

太刀の群れ 冬海原を裂きすすめ     夢音

二月七日 [かたち]

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坂の上の雲、は白かったか黒かったかと、問われると考えてしまう。昨日の西の空には、山並みに添い真っ白な雲の峰が拡がっていた。数分もしないうちに上空から滝のように黒い雲が覆い被さり、青空の帯を隔てて拮抗して夕闇に隠れていった。現代の世界の有り様を映し出すかの様な空だつた。

昭和8年1933年湘南の漁民二万人、池田巡査の助命嘆願書を提出。密漁トロール船乗組員を、大磯署員が射殺した事件。密漁トロール船は何処から来たのか。何の魚を獲ったのか。何故か気になる。

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