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7月21日 [人]

決定版資料 浅草弾左衛門 塩見鮮一郎著 河出書房新社刊 455頁を読んだ。

浅草に在住している「弾左衛門」という職掌をあらわす名の「弾」の字には、ただすという意味が含まれ、江戸の諸藩に、同類の頭領がいて、悪者を捕らえ、お白州に連れて行き、奉行の裁判を仰ぎ、断を下された者を処刑するという。

頼朝の時代から、その役割を果たしてきたという。その浅草弾左衛門に興味をよせたのは、湘南大磯に明治の時代、西洋式海水浴場を開いた、松本順という医者の生涯を知ってからだ。

松本順は、江戸の末期の徳川13~15代将軍に仕えた御殿医で、漢方医から長崎で蘭学を学び、蘭学医となった。明治維新という激動の時代、弾左衛門に何度か会い、倒幕軍へ江戸明け渡しの際、重要な役割負担を弾左衛門に委ねている。彼が社会の汚れ役、清掃から始まり、屠畜、戦場の死者や、大火災の死者の片付け処理、治安維持と刑の執行。社会の底辺で必須の諸々。

明治維新は弾左衛門配下のネットワークを活かした様々な仕事と、情報合戦、新たな時代への役割の切り替えだった。

具体的には、大病院の建設から、皮に関わる歴史から軍隊用の革靴製作工場、平民への昇格。弾左衛門配下の民籍に編入された人々の数は、総計38万2886人という資料もあるという。これらにより近代国家の犠牲になっていった人々のもう一つの側面が見えてきた。現代社会の形成の歴史と将来のこの国の貴重な資料となる本でした。
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13代弾左衛門は49歳の明治4年3月に、浅草新町の屋敷で写真を撮ったという。
徳川家康が江戸に入府したとき、今の日本銀行から三越にかけての一帯は、鬱蒼とした小山で、其処に弾左衛門はいたという。太田道灌の時代、弾一族の出身地兵庫県から長吏一党を呼び寄せたのが始まりだろうという。処刑の儀式をわきまえ、皮革の精製によく通じていた人々。その頃の日本橋は湊として最適で、尼崎から漁業者を招き、「甘棚」と呼ばれていたという。江戸の海岸線は拡大されて、時代とともに鳥越から、今戸へと弾一族は追いやられる。飢饉の度に膨大な窮民が江戸に押し寄せ「物乞い」になる。取り潰された諸藩から「浪人」がやって来る。社会制度の破綻が産み出した流浪者たちへの対応を弾左衛門一派は町奉行の手足となって懸命に働いた。

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現代の機動隊とデモ隊の対立、ある国の軍隊と市民の対立、立場の違いからの対立。
弾左衛門の配下の人々と、飢饉からの難民、浪人達の対立が共通する何か共感を覚える世界に見えてくるのです。権力の頂点にある人々に読ませたい本でした。

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