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七月九日 [時]

錆びたトタン板を見ると何か郷愁が湧いてくる。鎌倉の腰越の海岸に黒トタンの小屋があった。波板を縦に横にパアチワークのように貼り合わせ横長の小屋は、丸太が支えていた。いつしか取り壊され小綺麗なショップになった。襤褸のように錆び錆びのトタンと黒いコールタールで塗りたくったような外壁は、古武士のような趣があった。錆びた釘穴の場所や、朽ちた端の隙間から夏の日差しが、砂の床に差し込む光景が浮かんでくる。トタン屋根にはトタンの壁が似合う。小田原で空き家のようなトタン張りの家を見た。殴り書きのようなペンキの色が、思いつきのように塗られ、何色もが調和しているように見えたのは時の経過のためなのでしょう。色褪せ時を刻んだ家でした。
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明治42年湘南大磯の、大磯座開業以来毎日客止の盛況。
大正2年大磯のダリア盛況。この時代の花の女王か、来磯者続々。
昭和8年涼味百パーセントの海の爆破作業で、漁港の建設中。
昭和10年中郡水産会社が払い下げの潜水艦、三浦の浦賀ドックで7日解体、8月に大磯沖瀬の海に設置。松竹キネマが撮影出願。瀬の海には戦後も潜水艦を設置、何隻も沈んでいるのか。

七月七日 [時]

七月七日今日の天候は湘南地方曇り、本家中国ではなく日本の湘南地方ですが。一昨日の金土日曜日隣町で七夕祭りがあった。本来は今日が七夕の日だが、人手と経済効果を求めると休日開催は当り前、旧暦では8月になるのだが、こちらが本来のものなのか、どの日が重要かと考えるとわからない。精神的なものと、経済効果のあがる日と役割が違うのだろう。

新聞に「文化芸術懇話会」とあった。日本政府が指導して『誰もがわかりやすい政策芸術を極めることが重要だ』とある。何かわかりにくい。文化芸術は政治とどれだけの距離があるのか。
ヒットラーは画家になろうとし、挫折したと聞いたことがある。彼が画家になったら世界はどう変わっていたのか。退廃芸術博覧会とかやらが企画された時代。「文化・芸術が政治と付き合うことには危険性がある。が反面科学の基礎研究と同様に、先端的な芸術は経済援助が必要だ。かっては王侯貴族がパトロンだったが、民主主義国家できちっとした文化政策は必要だ」という声もある。

国家政策の芸術、指揮者であり首相という人物がある国であった。この国の今の指導者の考える「文化芸術」とは何か。作家会田誠氏の一言が心に沁みた。「国家プロジェクトの誘惑は常にある。そうしたものへの憧れを抑える、誘惑との戦いが、僕の作品の動機にもなっている。
エンターメント性の高い芸術や、人を感動させる作品には、『精神的な詐欺』のような危うさがある。」と語る。彼が最後に、芸術の受け手の『感動と一体感には警戒が必要だということで』熱くなる国民みんなの裏側に『ひとりぼっちで冷める』とバランスを保つことが必要だという。流されないために。ひたすら静かに見つめることが大事だと。

数日前、隣の大国で中国に突如として現れた女性アイドルグループ「56輪の花」。そのグループ名が示す通り、56人の女性で構成され、人気アイドルグループAKB48を意識したのか、“世界で最もメンバーの数が多い”アイドルグループとうたっていました。
7月1日、オフィシャルサイトが立ち上げられるなど、目下、売り出し中ですが、一方で、非常に政治性が高いグループでもあるようです。「56輪の花」の56という数字は、“国内に存在する56の民族を指す”と民族融合を強調。彼女たちのステージの後ろには、毛沢東・元国家主席や人民解放軍などの映像が延々と映し出されていました。そのうち彼女たちの総選挙も行われるそうです。このニュースを見たとき彼女たちの姿が紅衛兵に重なりました。そして紅衛兵は当時中学生から高校生の年代がなったのだが、紅小兵という小学校の集団が次に時代に育てられたということも知り教育の恐ろしさを実感しました。権力の支配、そのまた上の権力の支配、キリがありません。芸術とは個人のものなのでしょうか。国家が介入すると魂が入らない気がするのです。退廃芸術の時代何よりも政治が退廃し腐敗していたのでなないのでしょうか。同じ轍を踏まない!人間たちはそそっかしいものです。轍に入ると足元が見えなくなってしまいます。
隣の国も、我が国も何か鏡の裏表のように一つに見えてしまいます。お互いの違いをいうことのすべてが事実をかすめているからです。事実はたった一つなのに。

今朝もひとりで明るい未来を祈ってしまいました。『ひとりぼっちで冷める夏2015』
冷めるは、覚めるであり、醒めるでもあるのです。

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六月十一日 [時]

昨日は時の記念日でした。
大正13年6月10日 時の宣伝のため、湘南海岸で花火打ち上げ。各寺院は一斉に鐘をつく。
昭和9年湘南大磯町各神社仏閣で梵鐘を正午に鳴らし合図。
時を知らせるチャイムは今も町役場の管理で各町のスピーカーから流れる。
時を知らせる鐘の音が消えたのはいつの頃からか。

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藤沢市のパナソニック工場跡地にできた、スマートシティを訪ねてきた。代官山蔦谷書店の編集されたショッピングコーナーを中心に、低層マンションと、戸建て住宅が広がっている。
第一印象は、映画シザーハンズに出てくる丘の上の住宅街のイメージだった。何か人の気配が少ない。巨大な太陽電池の壁が住宅周辺、住宅の屋根を覆う街だ。世界に多くのスマートシティが生まれている。未来を予測する巨大なITタウンなのか。何かバラ色のイメージが一切湧かなかったのは自分がひねくれているからだろうか。何かが気になる。
何のための豊かさを、人々は求めているのか、考えさせてくれる街だった。
何がきになるのか? 答えはゆっくり探したいと感じた。

六月六日 [時]

今日は六月の節句なのだろうか。五月と7月の節句は有名だが、六月の節句はあまり聞かない。
一月三月五月七月九月を五節句と呼び、行事が行われるようだ。六月は勝手に水の節句と名付けようか。

つゆの海アオバトの群れ生きぬかん 無音

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昭和7年大磯照が崎海岸の岩礁三尺あまり隆起、関東大震災によるものだろう、茅ヶ崎、平塚は遠浅の海、大磯は照が崎海水浴場から北浜海岸の海水浴場へと移る。

昭和10年大磯本郷山を解放し住宅地に計画へ。丘陵地35万坪の敷地選定、来月鍬入れ式。
鍬入れ式は行われたのだろうか。現在も大磯本郷山の自然は保たれその麓を旧鎌倉古道が東西に延びている。本郷山はゴルフ場建設予定や、撮影所候補など多くなったが、今も山椿が咲く里山として開発されていない。

昭和11年大磯小学校、夏季休暇中に校舎の一部を学生に解放、臨海ホテルにし、神奈川高女校生200名、横浜栗田谷小学校生徒100名の申し込みあり。粋な計らいだが、自分も夏の水泳教室合宿があった頃を思い出す。恐怖の夏休みだった。キャンプや臨海学校のあった時代、入道雲が眩しかった。

昭和24年(1949)大磯中学校にて吉田首相、講和条約も今年は結ばれるだろうと訓示。
大磯在住だった吉田首相は、六三制導入の教育制度にも熱心だった。大磯小・中学校の校門に掲げられた表札の題字は、吉田首相の揮毫で書かれたものが今も使われている。サンフランシスコ講和条約ゆかりの吉田首相の愛犬も、「サン」と「フラン」だったことを思い出した。

脱線してしまうが、犬の名に、「アル」「テン」「レジ」と名付けた人がいる。
アルバイト、店長、レジ係のコンビニトリオなのだそうだ。犬の何も世相が反映するものだ。


二月十七日 [時]

2014年2月8日かなりの積雪が湘南地方にあった。平安時代からの古刹、真言宗地福寺は東海道大磯の宿場の中央付近北側にある。その裏山一帯が大磯駅前に広がる旧岩崎弥之助別荘だった通称岩崎山と言われる現在のエリザベスサンダースホームの敷地になる。サンダースホームの敷地内の山頂から地福寺の本堂が見下ろせる関係にある。昨年降り積もった雪は、地福寺の白梅の林を白く化粧するように一面の銀世界になった。この梅林の西側に、文豪島崎藤村夫妻の墓がひっそりと質素に佇んでいる。その背に石垣があり、当村ゆかりの小諸城の石垣に似ていると、生前の藤村は境内を白梅の咲く頃散策するのが好きだったという。明治の初期大磯の地の、高麗石という石垣は、岩崎別荘がその敷地の周りに巡らしたそうで、その石工たちは、皇居の石垣を築いた石工たちが任にあたったという。
地福寺境内の本堂の裏山には、当村の弟子の天明愛吉氏が借家住まいをしていたそうでこれも藤村が地福寺を訪れる理由だったという。1年前梅の蕾を包むように雪が舞い積もっていた。その時故郷木曽の馬籠は深い銀世界に閉ざされていただろうと思う。
この地で絶筆となった「東方の門」の原稿とともに文豪島崎藤村は静かに今も眠っておられる。
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平成27年2月17日大磯駅前のエリザベスサンダースホーム敷地内にある、澤田美喜さんの蒐められた隠れ切支丹の遺物を展示する、澤田美喜記念館を訪れた横浜からのお客さんとご一緒に、久しぶりに記念館を訪ねた。
数年前リニュアルし、建物の中は整然とガラスのなかにあった。以前は展示物には一切の説明文は無かった。今は簡単なコメントの札があり、入館料もとられている。写真撮影は禁止なのは以前も今も。以前は、私は御堂守りと仰られていた館長さんの信仰に対する厳しい緊張感が満ち満ちていた。今は宗教的な気配が無くなったわけではないが何か昔とは違う。
鳥取の陶芸家が陶器のコレクションを展示する光景を思い出した。彼の展示方法も何もコメントはしない主義。何かを感じるのは、国籍でも、制作年代でも、作者の名でも、有名無名にかかわらず、そのものそのものの存在感だと、陶芸家はいう。そういえば我が師の絵の先生も、作品や作家名を見てから絵を見るなといわれていた。本物ならばその存在感が圧倒して訴えてくる。今は説明の時代。その説明を聞いて見て、作品なり物に対峙して納得する。そんな時代はより加速したサービスを展開している。これでもかという態度は、原発は本当に安全ですよだからとの説明にも通じるのだろう。昔がいいわけではないが説明はどこまであっていいのかと、ふと考えた。展示のあった地獄の裁きの軸の前でいつも何時間も見ておられたという裁判官の方がおられた話を思い出した。そうだ、その存在に疑問を持ったら自分で考えればいい、考えに考えて分からなければお尋ねすればいい。説明文で分かった気になることは軽薄だと思えばいい。何か激しく反省してしまった今日の出来事でした。
高山右近のゆかりの地を訪ねた初代館長さんが、その地で「神は知る、人は知らず」という言葉に出会った話を思い出しながら。

ときかさね [時]

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日本に時を始めて計る事が、飛鳥時代671年旧暦四月二十五日、太陽暦では六月十日に漏刻(水時計)新設による。と「若き古代」という著作の中にある。水時計は水の溜まる量で時間を知り、時刻も知る。
それ以前の日本には空間の概念しか存在せず、時間は眼に見えない抽象的な概念である。
目の前にある空間に、時間という存在が、水の量で計れるとは当時の人は驚いたろう。
日本語の中で登場する、大事な「間」という概念の誕生でもあったという。間が大切、間が良い、間抜け、間を空ける、間を取る。間の起源を「漏刻」に見ることが出来るという。
確かに、「時を重ね」「時を計り」「時を隔て」時とは量であり、距離でもある存在になった。

ときかさね若き古代は春の聲

「若き古代」の本の題字は、北王子魯山人の集字とある。魯山人の揮毫した文字から拾い集めて、題字のデザインを構成したものだろうか。この本の著者は欧羅巴のある教会で、足元の古びた敷石が日時計になっているのを見て、西洋とは、時を日時計で知ると言う事に思い至る。日時計は水時計と違い量が無い。移動する日時計の影は常に一つで、常に現在のみを指示する。日時計による時間の概念は、移行する時刻の概念で、ここには「進化」の概念の起源があるという。

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「間」は、時間にも、空間にも、人間にも存在する。その年輪や頁の積み重ねは、地層のように厚みを増していく。間を持たせ、間合いを開けて、間を計る。
「進化」は前にのみ進む、後ろ向きの進化は聞かない。ひたすら「前に」進化を求める人や国の存在。

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日本や東洋の楽器は、逆進化系の楽器が主流だという。それは限りなく自然に寄添い、自然に同化する為なのか。西洋では楽器も進化し、音を分解、分析し、デジタル化のなかでより進化させるという。
進化した楽器と、逆進化する楽器の出会いはないのか。

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ときかさねくももかさねてはるかさね    む お ん

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石ころを見れば聴こえる山春香

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寺田寅彦の言葉に、「眼は閉じることが出来るのに、耳や鼻は閉じる事が出来ないのはどうしてなのか」という質問があった。色々な解答納得出来た様な出来ないような。

はるのつきおぼろのうえにときかさね

春の月 朦の上に 時重ね

ゆめみづき [時]

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旧暦三月の異称に、夢見月というものがあるそうだ。花が咲き、心地よい程の温かさの中で夢見る季節がもうすぐやってくる。然し今は寒い。朝梅の花の花びらが舞い落ちているのかと空を見上げたら、火山灰のように縺れあった淡雪が天から落ちてくる。
以前ある寺の門前に、「惚け防止の格言」が書かれていた。此の格言の反対の行為をしたら、早く惚け易くなるのだろう。惚けの加速度がつく。人は何故惚け始めるのだろう。複雑怪奇になった自分の脳味噌を一番シンプルにリセットし始めるのかも知れない。老人力などという本もあった。

ゆめみづきはるかなはるをゆめにみた  無音

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1979年6月我が国の『元号』が法制化された年だという。昭和の終わり、当時80%以上の人々が元号を使用していたので、継続したという。平成と書いて26年と書くが、平成がないと2026年と錯覚するときもある。2014年から平成14年も連想し、今年も三月というのにまだ正しい年号が浮ばない。

年号を年業と書き夢見月

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この国のかたちに、国旗があり、年号があり、判子の慣習があり、言葉がある。
1978年秋、東京九段の神社に、昭和殉難者14名が合祀され、その神社境内に鎮霊社という社が出来た経緯を最近知った。鎮霊社の目的はなんだったのか。その経緯が黒船来航の時代まで遡る事も。
西暦と元号と使い分ける不思議の奥に、最近ではより深いものを感じる。
その深さは原発の我が国の状況とも繋がってしまう。
1978年、自分はどのように生きていたのか。夢見るように眼をつぶる。

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ゆめみづき二つの星の空にあり

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十年程前に撮った猫、彼または彼女の猫は生存しているのだろうか。
猫達の年号を知りたい。

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夢み月生死をかけし風なびく

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夢見月森羅万象輝けり  無音

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神おわす雲の高嶺へ夢美月  む お ん

たろうづき [時]

太郎月とは、一月の異称での呼び方という。
太郎とは何なのか、以下ウイキペディアより

日本において太郎という人名が登場したのは、嵯峨天皇が第一皇子の幼名に命名したのが初見とされる。以後、武士階級の名としても広まり、今日では一般的に命名される人名のひとつとなっている。また、太郎より派生して「健太郎」「耕太郎」など太郎の前に固有の文字を入れた人名や、太郎左衛門などのように太郎の後に異なる名を用いた人名が命名される例もある。類似の名前として一郎、二郎、三郎などがあるが、これは長男が太郎または一郎と名乗る例が多かったのに伴い、次男であれば次郎または二郎、三男であれば三郎などと命名する慣習が拡がった。特に家父長制の強かった武士の間では、親子兄弟の序列を正す意図で好んで用いられるようになった。「小太郎」(太郎の長男の意)「又太郎」(太郎の長男の長男の意)など、嫡孫、嫡曾孫であることを示す名も命名された。
公卿や武士などの支配階級は、正式な人名である諱を呼称することを避ける習慣があり、特に武家の間では官位を授かっていない子弟や官職への任官が困難な中下級武士の間で、仮名または幼名として広く用いられた。時代に下るにつれ、俊太郎、健次郎、三郎太、四郎左衛門など様々な名前が命名されるようになり、個性的で柔軟性のある人名として、今日でも人名の種類として愛用されている。
とあり、太郎と次郎という名の犬もいた。
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先日知人の建築家の方から電話があり、日本は和暦の年号を使い西洋歴でないので歴史が分断し、蓄積の文化というものがないと嘆かれる指摘があった。西暦は2014年、平成は26年確かに桁違いのスケールだ。自分もこの差を激しく可笑しいと思った時期があった。然し今では何か和暦の年号のが馴染む気がする。何故なのだろうか。紀元二千二百年という発想の時代もあった。歴史とは何なのだろう。
地球の歴史の中で点にも見たないというのに。世界の歴史と日本の歴史を並列して学ぶ事は大事な事だろう。年号とは何か生命体の名前の様な気もしてくる。命の循環の有様のひとつが年号の様な。伊勢神宮の二十年おきの遷宮も何か、不思議な循環の有様を想い浮かべる。
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カラスが神の使者と考えられていた時代があった。
何か恐れをいだく生態を見いだしていたからなのだろう
今の人々は、神の声を信じないでいられるようだ
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今の季節は逆光線では、モノクロームの世界に見える光線状態が多い
その反対側から順光で見ると、極彩色の世界が広がっている。
世界は身体を回転するだけで見え方が変わる。
その間の空と地上には日常が潜む。
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障子に透ける世界は真実なのか幻なのか
障子を開ければその答えは消えてしまう
眼を閉じて真実を見よう
眼を開ければ事実のみが広がる世界がある
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太郎月とおくの海もたろうづき  無音

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春を抜く真冬の影の闇を抜け  無音

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魑魅魍魎 [時]

友人から一枚の葉書が届いた。あの懐かしいカウンターの店。あの店の一画にこの絵は掛かっていた。
あのカウンターに、村上春樹夫妻も通った時代があったという。数年前開店まもなくの店には、店主が一人だけしか居られず、ひたすら珈琲豆を炒っておられた。回転する手回しの機械の中で香り立つ豆の香りと、擂れる様な低い音が朝の時の流れを漂わせ、心地よかった。店主の方の左手は、文庫本を持たれ器用に片手で頁をめくられていた。一枚の絵のタイトルには「大坊珈琲店の午后」1982 牧野邦夫画 1925-1986とあった。61歳で亡くなった画家牧野さんも、このカウンターを眺め珈琲を飲まれたのだろう。朝のひとときコーヒー豆を炒る大坊さんの修行僧の様な姿が眼に浮かぶ。

友人からの葉書には、『12月に 閉店だって』とひとこと書かれていた。

老朽ビルの立て替えだそうだ。あの世界が消えてしまう。遠い日のカップから立上る至福の時間を思いだしている。
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どれでも5枚で百円とある、薬の袋を買ってきて額に並べた。何故か目出度い空気が部屋に広がった。
昔は貴重品だった、砂糖という文字の豪華なラベルのせいだろうか。このラベルの時代、詐欺まがいの表示はなかった様な気がする。うさん臭いラベルは巷に多かっただろうが、モノが大切にされ、生かされていた豊かな時代であった気がする。貧しくとも豊であれるとは、何なのだろうか。
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風邪薬も今より効きそうな気配もないか
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山茶花も咲き出した
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渋柿をウイスキーと焼酎で蔕につけ、渋抜きを始めた。
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晩秋には様々な実が並ぶ。ゆず、檸檬、柿、林檎、蜜柑。
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玄関さきに黄色は、風水でも吉兆とか。
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佐土原藩 [時]

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湘南の西に位置する、大磯駅の駅前に明治時代の半ば頃作られた、日向佐土原藩藩主・島津忠寛公 の別荘跡がある。今から百二十年以上昔のことだろうか。その屋敷跡は何代か所有者が代わり、今では町の駐輪場予定地として敷地が時々解放されるようだ。佐土原さんの坂と呼ばれる道が、大磯駅前から海を望む南東に向かい下っている。その右手に洋館があり築百年を数える、日本最初のツーバイフォー建築だという。この洋館は旧島津邸の土地の一部を買い取った貿易商が建てたものという。洋館が建つ前は島津の別荘として洋館があったというが定かではなさそうだ。
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開放された旧島津邸の敷地と同じ高さで西に洋館が見える。その間を国道一号線に向かい佐渡原さんの坂が下っていく。島津家が町の為に敷地の一部を道路として提供し、佐渡原さんの坂と呼ばれる様になったのだろうか。初めて敷地内に入りイベントとして十月十八日から二十日迄の三日間開催された、「うつわの日/大磯」の駅前会場となった旧島津邸を見る。大磯出身の作家さんによる大きな陶芸作品が鉄のオブジェの様に敷地内に展示されている。
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敷地内には池もあり、大きな灯籠も或る。旧島津別荘より新しい所有者のものだろうが駅前にこんな緑地が展開することに驚く。冬になると紅い小さな花をつける山椿の木を何本か間近で見れた。いつもは線路際からネット越しに見る風景だった。

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