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ゴロ石の正体 [祭]

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大磯の下町のドンド焼、今では左義長と明治の頃から呼ばれているそうです。この行事は12月の8日から始まります。目一つ小僧という神様がこの日やってくる。その日男の子が「ゴロ石」と呼ばれるロープにつけた球が二つ附いた様なかたちの石を使い、「一番息子」と呼ばれる行事をする。この石の由来が最近わかりました。一番息子で使われるゴロ石とは、五輪塔の石塔の一番上の空と風を顕す部分だったのです。古くは五輪塔も道祖神さんとして祀られる地域があった様です。古くなって朽ちた様な五輪塔はバラバラになり、道祖神さんの廻りに集められた様です。そんな光景は今でも田舎のお地蔵さんや道祖神さんの有りそうな場所で見受けます。大磯の下町ではこの五輪塔の一部を道祖神さんが出張出来る様なスタイルで石屋さんにたのんで作って貰ったのではないかというのが私の推測です。それが証拠に神奈川県では石の道祖神さんや五輪塔の一部を団子焼きの火の中に放り込む事が、つい最近迄あったようです。大磯の左義長では道祖神さんは御幣やゴロ石やオカリヤや橇の社にと、様々に変身して祭りを進める要な気がしてきました。関西方面での子供達が行う猪子石の行事や、十日夜の行事との共通性も最近感じています。夕闇迫る下町の光景、昨日は雪もちらつきました。真っ赤なアロエの花と祭り提灯が印象的です。
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50年前の左義長の下町 [祭]

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50年前の大磯は下町の左義長の光景。(資料は大磯町郷土資料館提供の印刷物から)
昭和30年代の下町の左義長の光景から見えて来るもの。遠くに高麗山が見えている。この山のかたちは今も変わらない。しかし黒松の樹影は当時は結構多かったようだが。この写真では定かではない。注目すべきなのは中央に写るオカリヤの小屋が木造である事。木の羽目板が当時の杉板を貼ったものに見えるが、この外壁は今でも町の古い家で見かける。オカリヤの原型は藁で作ったようだが(大磯町国府地域では今も藁で作られている)、大磯の下町では木造に変わっている。理由は大火が何度も下町で起こったせいなのだろう。古くは江戸の町でもドンド焼が行われていたようだが、城下内では火災の原因になると禁止令が出たようだ。この町では左義長のクライマックスの火祭りが海岸の広いスペースで行われるので持続出来たのだろう。しかし雪国の広いスペースがある場所や海岸地帯にドンド焼が今も残っているわけではない。この町では何か深い絆が祭りを続けていく原点になっている気配を感じる。50年前の写真に写る 白い割烹着の女性たちと手拭いのホオカムリの姿、手前の女性が肩に担ぐ棒の下には何が運ばれていたのだろう。赤い服を着た子供達は女の子か。打ち込まれ中央に年季が入った太鼓の革がかわいい。真新しく張り替えた白い障子の縁側が見える右手の家は縁側に腰掛けて漁の話や今年一年お抱負を語る人々がいたのだろう。路地が活気を帯び、井戸端会議も盛んだった時代が見える。その影にねんねこ半纏を着て子供をあやす若い女性の姿も見える。昭和30年代とは二階建ての家も全国では多かったのだろうか。大磯では海水浴客を夏場に迎え、貸し部屋や 貸家にする家が多く二階建ての普及も高かったそうだが。当時は電線のかずも少なく空が広く見える。トランスや看板にも30年代の雰囲気が濃厚だ。何よりも舗装されていない道路が懐かしい。中央に大きく竹の飾りが見えるのは「オンべタケ」御幣竹の意味だろう。吹き流しが飾られ紙で作った様々な吉祥のかたちが付けられている。提灯は祭灯としてナナトコマイリには欠かせない要素だ。
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平成23年現在の50年前に撮られた場所に立ち撮影したもの。舗装された道路を子供達が自転車で走り去っていく。頭上には集落の境に作られる「ミチキリ」と呼ばれる結界が下がる。ミチキリの中央に下げられているのは 大根で作られた賽子(さいころ)が先になった矢のかたち。このかたちは房総半島でもみられるようだが、漁師町の下町には似合う。
賽子は漁師の船魂さまにも使われる事と関連かもししれない。古老に聞いても「昔からの習わしだ」と潔い解答。祭りや神事を詮索する野暮な事はやめておこう。
でも白い矢のミチキリに 赤い矢のミチキリ 潔くて好きです。

道きりは一天地六ぞ漁師町 SILENT
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2011年昼下がりの下町の正月


ななとこまいり [祭]

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1月13日夕刻の湘南は大磯の下町に灯がともりました。その灯は七カ所の道祖神さんの仮小屋で「オカリヤ」といいます。子供達が主役で道祖神さんが主役の祭りですが最近は少子化で大変のようです。古くはお正月のお飾りを道祖神さんの前に集め、ドンド焼の準備をするためと、子供達が小屋で番をして町内のお飾りが盗まれないようにした様です。子供達は太鼓を先頭に夜の町内を回ります。「おかりっこめでた 御家はご繁盛 ご繁盛 ご繁盛」と囃し御祝儀を各家から貰います。1月の11日から13日迄が「ナナトコマイリ」の時期で大磯の下町七カ所に設けられたオカリヤを総てお詣りすると一年福に恵まれるといわれています。下町は
南下町と北下町にわかれその二つの町が南から、坂下、濱乃町、大泊、子の神、本宿、浅間町、大北の7つの集落に別れていたのだそうです。昔火事が有り南下町の人達が明治時代に長者町という独立した町へ移住しました。よって8カ所の道祖神さんを巡ることになり「ナナトコマワッテヤートコサ」と8カ所を巡るようになったそうです。今夜下町では子供達の「オカリッコの唄」が聴こえて来るかも知れません。「オカリッコメデタ アナタモシアワセニ」
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画像は下町の1月13日現在のオカリヤ光景です。
坂下.jpg子の神.jpg浅間町.jpg大泊.jpg大北.jpg中宿.jpg長者町.jpg浜ノ町.jpg

大磯宿場祭り(11月7日) [祭]

街道はいつもの静けさを破り束の間賑わった
同じ日街道をいくつもの昔の人達の往来があった
馬のいななき、藁草履の摺り足、下駄の音、逃げ惑う鶏の声、
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宿場へと急ぐ鴉を秋が追う
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祭りにも黒子となりし我がこころ
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秋は過ぎ音色はるかに旅の空
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老魁の道中いづこ茶の香り
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街道の祭りの葱もあふれだし
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藍揃え客あしらいの幕があく
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穴看板秋が微笑む日向ぼこ
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平成と昭和もならぶ秋祭
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踏んばりて大地を歩む秋の蠅
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ソラハコノ日モヤサシゲニ青ク高ク

空耳 そ ら み み [祭]

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空耳って言葉の響きは面白い 聞こえていない音が 頭の中で聞こえている
終わってしまった祭り囃子や、太鼓の音が聞こえてくる。鳴いてもいない蝉の声が頭の中で鳴いている。「空耳」のメカニズムは記憶の再生なのだろうか。聴きたい音を頭の中で呼び出し対話する。無意識で聴こえてくる音に何かきっかけはあるのだろうか。
祭り囃子と、人々の喧騒が風に乗って聴こえてくる。幻聴ではありません。
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最近「空目」「そらめ」という言葉にも興味があると以前のブログで書いた。カメラの顔認識というメカニズムが、空目の一つの解釈のようだ。人は顔に異常な認識度があるようだ。街で見かける自動車の正面や、丸い鍵穴にも顔を見いだす。そらゆく雲や煙にも人間の顔を発見する。何千年かけて顔という記号を認識するすべを身につけてきたようだ。顔には喜怒哀楽、攻撃や協調のサインが一番現れるからだろう。そこいら中に顔を見つける。空目も楽しいもののようだ。
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百万遍念仏 [祭]

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昨日の二月十四日はバレンタインデーの他に旧暦では一月一日となっていた。近所ではミモザの花が満開だが、寒さはひとしお底冷えがする。三寒四温とは行かない日々が続いています。
神奈川県の西北部にあたる東山北という地区迄出かけてきた。場所は頭上を東名高速道が走る向原の能安寺道場で行われる。毎年二月十五日から十七日迄の三日間、六百年の昔から行われてきたと言う「百万遍念仏」を見学してきた。室町時代には全国で百万遍念仏が広まったそうだが滑車を使い数珠を繰るやり方は珍しいと言う。最近の開催日程は十五日に近い土日二日間に行われると言う。境内に設けられた甘酒と豚汁をご馳走になり道場にあがった。
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神奈川県西北部の山北と言う町には古くからの伝承行事が多い。正月の左義長も独特だが、世附(よづく)地区の念仏堂で行われてきた、百万遍念仏は先祖の霊を慰め、地域の安全祈願と、悪疫退散を願って9メートルの数珠を木の滑車に通し若者たちが手繰っていく勇壮な行事です。かって念仏堂があった世附集落は昭和49年のダム建設で今は丹沢湖と言う湖の底になっています。
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子供の握りこぶし程の水桃木を使った302個で出来た長さ9メートルの数珠は大きな音をたてて床に落ち、宙を舞い又落ちる様は本当に迫力があります。
念仏の中、手繰られる数珠の床を叩く音は滝の落下の音にも聞こえて、激しい音だが心が落ち着いてきます。太鼓を叩く古老も数珠を手繰る群れに混じり拍手喝采です。若者たちは十回で交代し、八名程が順番に二間四方の床の上で数珠を手繰ります。暴れる数珠は見物席の中にも落ちてきます。
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数珠を手繰る若者の足元がすっくと立ち上がり瞬間は何ともいさぎよい物だと思われました。
山には昨日降った雪が残っています。御殿場線の東山北の駅は空が高くとても趣がありました。
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左義長の翌朝 [祭]

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左義長の翌朝 海岸には昨日迄の9つの斎灯(さいと)賽塔は跡形もない。
幻のように聳えていた塔が一夜で消えた。ガンジスの川辺のように灰の山が波に洗われている。
白くなったエビの飾り物や無数の小さな鈴が灰の中に浮かんでいた。
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天と地と海とをむすび帰る神
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大磯左義長の賽塔(さいと)に火が入りました [祭]

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平成22年1月16日大磯北浜海岸に建てられた9つのサイトに午後七時火が入った。
朝から海岸に立てられた御幣竹の吹き流しが風に流れる塔の前には、各地区の道祖神さんが集合、海に向って奉られています。ヤンナゴッコと呼ばれる厄神を封じ込める「のの字編み」の作業は4−5時間も4人掛かりでかかるそうです。厄神が逃げぬようにと隙間なく緻密に藁縄で編む作業は、漁師さん達の器用さを憶います。網を繕い、ドンザを繕った男衆の技。
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早朝7時からサイト作りは行われ9時すぎにはほぼ完成されるようです。9つのサイトが海岸に居並ぶ様は壮観です。
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炎が最高潮に達した頃、海に厄神をのせた橇に綱を引き入り込む男達。海から上がり橇の上の厄神は火の中に投じられるしぐさがあり、同時に厄神は男達の脚で壊されます。綱は海方と陸方との綱引きに変わります。その綱を引くと一年が息災であると、左義長の燃えかすを家に持ち帰ると火事よけになるとか、海鳴りの中にそんな会話が聞こえてくるのでした。R0045003.jpgR0044989.jpgR0044993.jpgR0045005.jpgR0020722.jpg
昔は11時頃迄行われていたと言う総ての神事は現在では9時頃迄にもとの集落の道祖神さんに帰って行く事で終了するそうです。詳しい事は大磯町のHPでご覧下さい。

輝ける闇に集いし道祖神     SILENT
左義長へどんどどんどと人の浪  さいれんと

大磯 左義長 ナナトコマイリの夜 [祭]

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左義長のナナトコマイリは三日間続く。江戸迄七カ所の道祖神さんが明治の大火で下町が多く焼けだされ東に長者町という新しい集落が誕生した。そのため七所詣りは「ナナトコマワッテ ヤートコサ」と呼ばれ、八カ所の道祖神をお詣りすることになった。写真は長者町の御仮屋は写っていないが提灯には長者町のものもある。寒い底冷えの下町にナナトコマイリの人々の影が動く。情緒がある光景だ。画像は一部見られない方もあるかも知れません。イラストレーターからの書き込みでデータ化しているためです。JPEGの拡張子が付いて入るのですが。
この晩には子供達が歌う悪魔っパライの歌「オカリッコの歌」も聞こえてくるのです。
道祖神さんの御仮屋の中には賽銭と竹や松が盗まれないように番をする子供達が昔は大勢いたようです。今は靴の数も道祖神さんの前には少ない数並んでいます。

七所詣り ナナトコマイリ [祭]

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大磯の下町は南下町と北下町の二つである。南下町は南から、坂下、浜ノ町、大泊、子の神の4つの集落に別れる。北下町では中宿、浅間町、大北の3つの集落に別れる。以上の7カ所の集落に道祖神さんがあり、7つの御仮屋が完成した。
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触れ太鼓と「やんなごっこ」用の橇
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