SSブログ

3月27日 [物語]

花見の季節、去年から黒塗りの小さな重箱に、似あった小風呂敷で包んである、それに卵焼きでも入れて持参しようと思っている。小風呂敷かハンカチのようなその柄は利休鼠のような温かみの灰色に、霰がふるような様。

R0143505.jpg

本屋で出会った、最近の心に染み入るような本。
何か今という時代が生んだ、作家の良心がとてもとても共感できる。
ネットでブログに書かれていた文章が本になった模様だが、今年一番お勧めできそうな本だ。
「断片的なものの社会学」岸政彦著 朝日出版社 だ。以下長いけど本の中から、引用。
この小石の話、なぜか心が詰まるほど共感できてしまうのです。今現在。


小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。

「人生は断片的なものが集まってできている」の章から

私はいちども、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、いちどもなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。

そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。

これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。

私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。


*  *  *


私たちは、それぞれ「自分の人生」を生きていて、それはそのままその私たちの「全世界」でもある。しかし、私たちは、それぞれの全世界を生きながら、他人とは断片的にしかつながることができない。私たちはそれぞれ、徹底的にひとりきりのままで、自分の人生を生きるしかない。だれか他人と、一時期のあいだ「一緒に暮らす」ことはできても、その他人が、私たちの自分の人生の「中に入ってきてくれる」ことはない。そして、さらに、私たちが閉じこめられている「自分の人生」そのものも、あまりにももろい。

しかし、ふとしたきっかけでおおきく崩れさった自分の人生の廃墟から、私たちは何度も立ち上がる。そして、他者とのあいだに断片的なつながりしか作れなかったとしても、その断片的なつながりから私たちは、たとえ一瞬のあいだでも、おおきな喜びを得ることができる。

R0143643.jpg

そして「笑いと自由」の章から

アーシュラ・ル=グウィンの『ゲド戦記』第4巻に、とても印象的なシーンがある。大魔法使いゲドの「伴侶」であるテナーという女性は、テルーという里子を育てている。テルーは、まだ小さな子どもだが、言葉では言えないような陰惨なことをされて、顔の半分がケロイドのようにただれている。テナーは、心に難しいところをたくさん抱えるテルーを心から愛している。もちろんその顔の傷も一緒に愛を注いでいる。

しかし、こんなシーンがある。ある夜テナーは、ぐっすりと寝ているテルーの寝顔を見ているうちに、ふと、手のひらで顔のケロイドを覆い隠す。そこには美しい肌をした子どもの寝顔があらわれる。

テナーはすぐに手を離して、何も気付かず寝ているテルーの顔の傷跡にキスをする。

笑いとはあまり関係のないシーンだが、私はこのシーンに、私がここで言いたかったことがすべて描かれていると思う。テナーはテルーの傷跡もふくめて、その全てを愛している。でも、あるときふと、その傷跡を手で隠して、きれいな顔のテルーを想像する。それは誰にも知られない、ほんの一瞬のことだが、この描写によって、ありのままのかけがえのないものをすべて受け入れるテナーの愛情から、あらゆるきれいごとや建前がきれいに消されている。

ある種の笑いというものは、心のいちばん奥にある暗い穴のようなもので、なにかあると私たちはそこに逃げ込んで、外の世界の嵐をやりすごす。そうやって私たちは、バランスを取って、かろうじて生きている。

R0143718.jpg

何かこの本は何ども読みたくなる光景が詰まっている気がします。著者は社会学者1967年生まれ







 



            法然と岸政彦の春を買い    むおん









この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。