4月10日 [写真]
佐倉は11万石の徳川幕府の重臣が治めた城下町だったそうだ。
歴史博物館へは武家屋敷の残る旧佐倉城へと歩く。地蔵の赤が春の日に深く眩しい。
時代の光を感じる道筋
人工芝もなぜか懐かしさへ
佇むポストの赤にも惹かれる
花が舞うのを撮るのは難しい
初夏の気配
歴史博物館へは武家屋敷の残る旧佐倉城へと歩く。地蔵の赤が春の日に深く眩しい。
時代の光を感じる道筋
人工芝もなぜか懐かしさへ
佇むポストの赤にも惹かれる
花が舞うのを撮るのは難しい
初夏の気配
4月09日 [花]
4月08日 [花]
4月07日 [花]
4月06日 [映画]
昨日見た映画は、1978年カンヌ国際映画祭最高賞のパルム・ドールをとったイタリア映画「木靴の樹」という作品。同じ映画館で37年ぶりに再び見た。
冒頭、トウモロコシ畑の収穫のシーンから始まる。19世紀の北イタリアの貧しい4軒の農家の家族の物語。すべて自然光で、役者を使わず本当の農民達で撮ったという3時間を超える映画だ。
中世の名画が動き出すように、画面の空、画面の中の大地、自然の音が素晴らしい。
地主の豊かな生活と、管理人の非情さ、農民達の眼差しと数々の寓話に満ちた出来事が淡々と綴られていく。イタリア映画のリアリズム作品、鉄道員や、自転車泥棒の世界に共通する温もりを感じられる映画だ。一本のロウソクとランプの下で数十人の4軒の家族が集まり、大人たちが交代で毎夜子供や家族たちに話をするシーンは圧倒される。共同体としての家族と子供たち。
日本の遠野物語のような世界を感じた。鶏のフンでトマトを育てる老人と少女のエピソードは記憶に残り37年間覚えていた。当時は暗い画面の連続と思っていた映画が昨日には何故か思ったより明るく感じた。現代の世の中が暗くなってしまった反映なのだろうか。
ミラノに新婚の夫婦が出かけるエピソードは何か新しく見て胸が詰まった。修道院の12人の晩餐のシーンが、最後の晩餐の構図とそっくりで、自分がミラノの出張で見た最後の晩餐と、ドーモの聖堂のシーンが映りハッとした。映画の中の晩餐は、新婚夫婦の最初の晩餐だったのか。翌朝夫婦の赤ん坊が差し出されるシーンは、キリストの誕生かと深読みしたりして。ミラノのデモ隊の鎮圧の騎馬警官たちも現代に通じる大きな流れを感じ、決して古い映画ではないことを確信した。
6時間をかけて学校に歩いていく少年の木靴。割れた片足をぶら下げて帰り、靴下も脱いで寒い道を歩いてきた。その日少年の弟が、生まれていた。母親からお祝いにと白パンを貰う少年。
何か懐かしい思いが甦る。
荷車を引く馬車、解体される豚のシーン。積み上げられた薪、農家のベランダに干されたトウモロコシ。新婚の二人が早朝教会に向かう草原の花と絵画の中の太陽のような日の出。
ふと、現代のアメリカのアーミッシュの人々を思った。100年前のイタリアと、現代のアメリカのアーミッシュの人々。イタリアから移民で新大陸に渡った家族もいるだろう。現代のアーミッシュの人たちも文明の利器は極力長い時間をかけて吟味してから生活に取り入れるという。
100年前の人々の豊かさと、現代の豊かさの大きな違いと、その中でしっかりと繋がっている何かを映画の中に見た気がした。
未来は何故か懐かしい 過去は何故か新しい
1978年は世界でテレビが活躍を始め、映画の時代が終焉を迎え始めた時代だそうです。今はテレビが終焉を迎え、スマホやインターネットの時代になってしまいました。家族とは何か世界とな何か、
「木靴の樹」は未来を教えてくれたような名作でした。
木靴の樹 関連情報http://www.zaziefilms.com/kigutsu/
冒頭、トウモロコシ畑の収穫のシーンから始まる。19世紀の北イタリアの貧しい4軒の農家の家族の物語。すべて自然光で、役者を使わず本当の農民達で撮ったという3時間を超える映画だ。
中世の名画が動き出すように、画面の空、画面の中の大地、自然の音が素晴らしい。
地主の豊かな生活と、管理人の非情さ、農民達の眼差しと数々の寓話に満ちた出来事が淡々と綴られていく。イタリア映画のリアリズム作品、鉄道員や、自転車泥棒の世界に共通する温もりを感じられる映画だ。一本のロウソクとランプの下で数十人の4軒の家族が集まり、大人たちが交代で毎夜子供や家族たちに話をするシーンは圧倒される。共同体としての家族と子供たち。
日本の遠野物語のような世界を感じた。鶏のフンでトマトを育てる老人と少女のエピソードは記憶に残り37年間覚えていた。当時は暗い画面の連続と思っていた映画が昨日には何故か思ったより明るく感じた。現代の世の中が暗くなってしまった反映なのだろうか。
ミラノに新婚の夫婦が出かけるエピソードは何か新しく見て胸が詰まった。修道院の12人の晩餐のシーンが、最後の晩餐の構図とそっくりで、自分がミラノの出張で見た最後の晩餐と、ドーモの聖堂のシーンが映りハッとした。映画の中の晩餐は、新婚夫婦の最初の晩餐だったのか。翌朝夫婦の赤ん坊が差し出されるシーンは、キリストの誕生かと深読みしたりして。ミラノのデモ隊の鎮圧の騎馬警官たちも現代に通じる大きな流れを感じ、決して古い映画ではないことを確信した。
6時間をかけて学校に歩いていく少年の木靴。割れた片足をぶら下げて帰り、靴下も脱いで寒い道を歩いてきた。その日少年の弟が、生まれていた。母親からお祝いにと白パンを貰う少年。
何か懐かしい思いが甦る。
荷車を引く馬車、解体される豚のシーン。積み上げられた薪、農家のベランダに干されたトウモロコシ。新婚の二人が早朝教会に向かう草原の花と絵画の中の太陽のような日の出。
ふと、現代のアメリカのアーミッシュの人々を思った。100年前のイタリアと、現代のアメリカのアーミッシュの人々。イタリアから移民で新大陸に渡った家族もいるだろう。現代のアーミッシュの人たちも文明の利器は極力長い時間をかけて吟味してから生活に取り入れるという。
100年前の人々の豊かさと、現代の豊かさの大きな違いと、その中でしっかりと繋がっている何かを映画の中に見た気がした。
未来は何故か懐かしい 過去は何故か新しい
1978年は世界でテレビが活躍を始め、映画の時代が終焉を迎え始めた時代だそうです。今はテレビが終焉を迎え、スマホやインターネットの時代になってしまいました。家族とは何か世界とな何か、
「木靴の樹」は未来を教えてくれたような名作でした。
木靴の樹 関連情報http://www.zaziefilms.com/kigutsu/
4月05日 [花]
4月04日 [山]
敷き詰められた石に雨が等しく降りかかっている。
その石の一つ一つの違いは、かたちの違いか、素性の違いか、ふと考える。
「数学する人生 岡潔」森田真生編を読む。
自分とは何か
自分とはなんでしょうか。 西洋人は「自分とはこのからだである」といっているのですが、それは「自我」が自分であるといっているのと同じことです。
ところが、自我に肉体を主宰する力などないことは、少し振り返ってみれば明らかでしょう。
自我は思うままに食べ物を取り入れるし、排泄したくなれば、それを排泄する。ところが何度もいいますが、自我にできるのは、その両端だけで、その途中は少しもわかりません。
このからだ、この心が自分だと思うのは間違いで、そんな考えは打ち消さないといけないということです。
以上岡潔さんの言葉の、その途中を分かるもの、とは何なのでしょうか。「心」が「体」との関係で、自分を支配しているということなのでしょうか。
人というのは、大宇宙という一本の木の、一枚の葉の様なものです。
宇宙という一本の木の一枚の葉であるということをやめたなら、ただちに葉は枯れてしまいます。
宇宙という大きな木と、一枚の木の葉。
本当の自分を仏教では「真我」あるいは「大我」というそうです。
真我、大我は死にません。「不生不滅」世界の一番はじめからあるもの、生まれたものではなく、滅することもないもの。
木の葉は、秋になれば落ちますが冬になっても木はあります。
真の自分とは、木だから不死です。不生不滅です。
ところが、葉としての小さな自分は死ぬのです。仏教では「小我」というそうです。
大我は不生不滅で、小我は死ぬ。
命あるものは100%死ぬ。大我は不死。
人の心とは、簡単にいえば、二つの要素からなっているそうです。
一つは懐かしさ。もう一つは喜び。この二つを同時に感じるのだそうです。
次回、「懐かしさ」と「喜び」を読み進みます。
笠をきて案内の僧や花の雨 みの助
隧道を抜けて激しき花の雨 無音
4月03日 [花]
今朝は雨の裏山に、桜の花を見に出かけた。春雨に煙る山、霧のような白いベールが風に乗って山を登っていく。深山渓谷に迷い込んだような別世界。
灯火をあちこちに見つけると、桜の老木が山の中にある。一年に一度おのが姿の存在を知らせるように、明るく白く輝いて滲む姿がある。
今朝もまた山あちこちの桜花 無音
ひっそりと花を灯せし山桜 今日をかぎりと吾を見る
華の精青山の奥で花の宴 むおん
もみじ山に登り、もみじ沢を降りてくる
安田善次郎翁の別荘だった姥が懐の地に立つ、持仏堂と満開の桜。奈良の藤原京の面影をこの地に育てた光景、作者は安田靫彦画伯。校倉の堂が雨に煙っていた。