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9月21日 [世界]

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尊厳の芸術 THE ART OB GAMAN
と題して2012年11月から東京を皮切りに展示がスタートし、福島、仙台、沖縄、広島の各NHK放送局で行われたという。東京会場のみは東京藝大美術館だったという。

その展示内容は、アメリカの2000年の事。日系三世の女性が両親の物置部屋で見つけた、木製の小さなブローチから始まったものだそうです。

彼女は両親が、強制収容所時代に作られたブローチだろうと、その金属の粗末な安全ピンから推測し、その時代の事を考え、収容所の人たちの暮らしを想像するには、他の人々が作ったものがあるだろうと思ったそうです。

収容所のことは両親はあまり話さなかったと言います。屈辱感や、不当な仕打ちに対する悲しみや怒り、反日感情が再燃する事を怖れて、日系人は現在迄、その収容所時代の話を避けてきたのです。

日本の歴史の中で、海を渡って多くの日本人が海外の国へ様々な事情でわたりました。その中でその国に帰化したり住み着いた人々の歴史の証言のような展示会。

何もない砂漠の収容所で、土の中から見つけ出した貝殻たちで作ったブローチ、玉ねぎ袋で編んだ煙草入れ、足元が悪かったので作られたたくさんの杖、丹念に作られた石の硯、足元が悪かったので作られた下駄、丈夫な木の椅子や家具。それらは日系人の強制収容所で、何もないところから工夫をして、豊かな気持ちになるように頑張った日本人の生活の証だったのです。
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2010年ワシントンのスミソニアン博物館で開催されることになった展覧会には25万人以上の人々が見学に訪れたという。

並んだ品物たちは、ガラクタや手近にあった素材から、忍耐強く、創意工夫、強い精神性で作ったものたちで、
作品が生み出された背景を知らなければ、どこか日本の香りがする、アメリカのものとなってしまいます。鉄条網のフェンスに囲まれ、監視塔からの銃口の元で、さくひんたちはつくられました。日本人の我慢と忍耐が産み出した作品群。

今もアメリカの日系人たちの家のガレージの片隅に残されているようです。
アメリカのガレージの隅で誕生して中国で生産されたアイホンと言う機種でこの文章を綴っています。

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9月20日 [人]

太平洋戦争中、アメリカ全土にいた凡そ12万人の日系人が、老若男女を問わず、アメリカ内陸部の強制収容所に移動させられたそうです。その時の日系人退去命令書。1942年5月の日付が見えます。
ビルや電信柱に貼られた命令書には、一週間で身の回りを整理して出頭、荷物は手に持てるだけと。
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まるで福島原発の退避状況と類似していることに驚きました。チェルノブイリでは強制的に村からバスに乗せられ退去させられた老女が、バスケットに飼い猫を入れてのみ故郷を離れた話など連想しました。いつ終わるのかわからない収容所への道です。

幼い退去者とキャプションの写真
年齢や市民権の有無に関係なく、日本人の血を引くものすべてが退去の対象。家族の荷物と一緒に集合センターへ送られるのを待つ少女。1942年春
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アメリカ国内に居住する現在のイスラムの人々の現状を思います。イエローモンキー、ジャップと差別されるカラードと呼ばれる差別の現実を思います。

収容された人々の3分の2はアメリカ生まれで、アメリカ国籍を持ち、大半は日本語の読み書きができず、日本に行ったこともありません。収容された半数の人達は17歳より若い人たちだったと言います。
第二次世界対戦以前も大戦中も、日系人による破壊活動や転覆工作といった、敵国を助けるような裏切り行為はありませんでした。然しそうした事がおこる可能性を封じる事が、収容所の口実となったそうです。西海岸に集中した日本人や中国人の経済進出が脅威と考えられ、1913年には、外国人土地法、1924年には、排日移民法で、日本からの移民が禁止されていたそうです。

第442連隊戦闘団
1943年日本人二世だけで構成する戦闘部隊が、33000人のアメリカ陸軍が誕生し、多くが収容所からも志願したそうです。この部隊は最も多くの勲章を授与され、戦死者や死傷者は多く、勇猛果敢さは、アメリカの忠誠への証として世界で恐れられたそうです。442部隊の兵士の家族。
日本の当時の首相東条英機は、二世たちにアメリカ国民であることは、アメリカに忠誠を尽くせと。手紙を送ったそうです。何か手紙の重さを感じますね。何故祖国は戦っているアメリカに忠誠を尽くすか、日本に帰るかと言えなかったのでしょうね。

日本が台湾の少数民族の部隊を編成して、アジアの戦場で勇猛果敢な成果を挙げた事例を思い出しました。
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1941年12月7日真珠湾攻撃から48時間以内にFBIは、確たる捜査なしに約3000人の一世を「敵性外国人」として逮捕したそうです。あらかじめ戦争が始まることをFBIは、知っていたのでしょう。

収容所の人々が、その生き様を遺したお話、明日に続きます。
「尊厳の芸術」強制収容所で紡がれた日本人の心 以上から引用


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