八月二十一日 [月]
山本丘人画伯の短冊を和室にしつらえた。
此処暫く月を見ていない。
今朝は田沢湖の近くの高原にいます。
日本で一番深い湖に射し込む月光の姿をみてみたい
短冊には「玄関に水打ってある良夜哉」とある。
今年の良夜には、我が家でも打ち水をしよう。
今年の良夜は、さていつか。
八月十九日 [色]
八月十八日 [鳥]
八月十七日 [夜]
朝のこない夜はない!
当たり前のことなのだが夏の夜は昼間の暑さに比べ歓迎される。
朝のこない夜と思えるのは、冬の長い夜の時間だろうか。
長い長いトンネルを抜けるとそこは一面の眩しい銀世界。
何かに耐え、耐え抜くことで明るい解放の世界に出られた時の喜び。
いつか遠い昔、鼻をつままれても判らないような闇に出会った。星もなく月もなく民家や町の灯りも一切見えない闇の世界だった。人の声だけが周りに聞こえ衣服の擦れる音や、足音の微かな気配が、自分を安心させてくれた。
最近の夜は明るい。明るすぎる空間にあふれ闇を忘れていた。
目を閉じても瞳の裏に色を感じる。
秋の匂いが部屋の片隅に感じとれる。
夜は思いにふけるには、心鎮めるには最適な状態だ。
中国でも日本でも婚礼は宵の口から始まったという。
一日の始まりが夕方からあくる朝にかけての時間が主役の時代があったという。
夜は神々の時間でも長く長くあった気がする。
魑魅魍魎が蠢く世界も夜だった。
闇と夜、いつから消え失せてしまったのだろうか。
昭和4年8月17日 湘南大磯の化粧坂魔の踏切、20余万円で地下道トンネルへ。かって大踏切と呼ばれ旧東海道が線路をまたぎ、箱根駅伝の選手も列車が通過する時は待ったという。牛が踏切で立ち往生し大騒ぎになったこともあるという。踏切には魔が潜むのだろうか。
疾走する夏の兵士の闇の唄 無 音
八月十六日 [光]
八月十五日 [世界]
和製ズミクロンと言われている、リケノン50㎜F2.0のレンズを求めた。本家ズミクロンの20分の1の値段である。それもマウント代が半分だからレンズだけの値段は、本家の40分の1の値段。
今朝早速テストをすると硬調のシャープで切れのある写り。今までソフトフォーカスや軟調レンズの世界が好きだったが、世界観が変わりそうなレンズ。発売は1970年代の後半、今から40年近く前のレンズ。金属の重みが手応え十分。
昔、知人がサイコロの話をしていた。サイコロの表面に1が見える時は裏側は6が基本だという。一天地六というらしい。知人はその賽の目の一の裏側は本当に六なのかと問いかけてきた。最初は何のことかわからなかった。そういう決まりなら六に決まっていると思った。
知人は賽子をひっくり返す時に、裏側はもしかして違う数字なのかもしれないが、ひっくり返されると六になることがあるかもしれないといった。裏側は表と同時に見ることができないので六が無い可能性もある。禅問答のような問いかけだと思った。
鏡を使えば、サイコロの上と下は同時に見ることが可能だ。しかし鏡の中に見えるサイコロは虚像だ。実像のサイコロには違う数字がある可能性もある。見えないものを見るという世界を思った。そして世界とな何なのか。40年以上前の話だ。
数年前、『時間とは何か』考えた。時間とは流れているものでなく、現瞬間という今のみだという説がある。過去は頭の中にあるが、存在する目の前の瞬間だけが信じられる世界だという。人は70年前の世界を頭の中や記録で見るが、それは2015年の今でしかないという現実がある。サイコロの裏表にも、ひっくり返す時間というものがあることに気づいた。
賽を手に持ち裏返す瞬間に世界は変わっているかもしれない。それが時間の正体なのか。
戦後70年という時間を考え、ドイツという国と日本の国民性の違いを何かレンズの思想にも感じた。カメラ好きな人間とは何なのだろうか。
昭和6年(1931)の今日、湘南大磯高来山頂に、鎌倉時代に生きた虎御前の墓か。宮内省技師が実地測量中、甕の中に人骨も発見!専門家鑑定。
昭和8年 照が崎海岸で灯籠流し十年ぶりに復活。
此処彼処(ここかしこ)御霊集いし盆の宵 無音
今朝早速テストをすると硬調のシャープで切れのある写り。今までソフトフォーカスや軟調レンズの世界が好きだったが、世界観が変わりそうなレンズ。発売は1970年代の後半、今から40年近く前のレンズ。金属の重みが手応え十分。
昔、知人がサイコロの話をしていた。サイコロの表面に1が見える時は裏側は6が基本だという。一天地六というらしい。知人はその賽の目の一の裏側は本当に六なのかと問いかけてきた。最初は何のことかわからなかった。そういう決まりなら六に決まっていると思った。
知人は賽子をひっくり返す時に、裏側はもしかして違う数字なのかもしれないが、ひっくり返されると六になることがあるかもしれないといった。裏側は表と同時に見ることができないので六が無い可能性もある。禅問答のような問いかけだと思った。
鏡を使えば、サイコロの上と下は同時に見ることが可能だ。しかし鏡の中に見えるサイコロは虚像だ。実像のサイコロには違う数字がある可能性もある。見えないものを見るという世界を思った。そして世界とな何なのか。40年以上前の話だ。
数年前、『時間とは何か』考えた。時間とは流れているものでなく、現瞬間という今のみだという説がある。過去は頭の中にあるが、存在する目の前の瞬間だけが信じられる世界だという。人は70年前の世界を頭の中や記録で見るが、それは2015年の今でしかないという現実がある。サイコロの裏表にも、ひっくり返す時間というものがあることに気づいた。
賽を手に持ち裏返す瞬間に世界は変わっているかもしれない。それが時間の正体なのか。
戦後70年という時間を考え、ドイツという国と日本の国民性の違いを何かレンズの思想にも感じた。カメラ好きな人間とは何なのだろうか。
昭和6年(1931)の今日、湘南大磯高来山頂に、鎌倉時代に生きた虎御前の墓か。宮内省技師が実地測量中、甕の中に人骨も発見!専門家鑑定。
昭和8年 照が崎海岸で灯籠流し十年ぶりに復活。
此処彼処(ここかしこ)御霊集いし盆の宵 無音