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十二月十二日 [写真]

昭和43年12月12日 西武鉄道、大磯の吉田邸の買い取り決定。翌44年大磯プリンスホテル別館として維持管理を始める。平成21年原因不明の火災で全焼。当時の佐藤栄作首相が名鉄に了承を求め、北側の三井高棟別荘を名鉄が買収、国宝の茶室如庵も名古屋に移築される。
昭和4年のこの日、国道一号線の山王町大踏切は地下道建設工事に来年より着手、2年後の昭和6年に完成か。
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歳末で賑わう上野アメ横商店街に先日出かけた。フィルム撮影で一週間後の現像到着。何かデジタル時代と違うスピード感が懐かしい。待つということも大事な時代感覚なのだろう。



         暮れの人急ぎ猿待つ飴の街     むおん




十二月十一日 [写真]

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Dマウントのシネ用レンズで、街の風景を撮ってみた。ズイコー13mmの小指先ほどのレンズ。
アルミの輝きが夕陽で綺麗だった。

十二月十日 [写真]

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一輪だけ咲いたバラ。プリンセスミチコという名の薔薇。一輪だけひっそっりと咲いた。
北海道のハマナスの草原とあの一重の花を思い出した。

          



         花野にて孤独に耐えし薔薇一輪  ムオン






十二月九日 [いのち]

スンバ島の人が編み込んで作ったという、金属の鎖状の蛇がやってきた。黄金の蛇は滑らかに生きているかのように動く。まるでその命の構造をつぶさに眺めて作られたかのように。鎌首のような頭も皮膚の鱗構造も筋肉の動きも、身の回りにこの生き物がいる世界だから生まれたのだろう。そう今目の前にある画面でさえ、この星にあるものたちから作られた。人はいつか、命までも作り出すのだろうか。それは命を作る、人間が作ったコンピュータの世界から生まれるのかもしれない。その日は目前に迫っているのだろうか。黄金の蛇は何も語らない。
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昭和10年1935年この日、湘南の此の町に、常春の大磯越年客の増加。各名士の別荘が新設または改築される。徳川頼倫公、原田熊雄男爵、三井高棟男爵、住友貫一、池田成彬、山下亀三郎、木村孝太郎諸氏。

平成27年12月9日の大磯の朝の紅葉
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             紅葉呑む黄金の蛇や穴に入る  無音






十二月八日 [祭]

今日は暮れも押し迫った8日、古くは日本全国で八日節句という行事があったらしい。
二月八日と十二月八日を、八日節句とかコトヨウカといいます。二月八日をコトハジメで十二月八日をコトジマイとかコトオサメともいいます。鬼よけ、悪魔よけが目的の行事です。この日には一つ目小僧がやってくるなどといわれます。竹竿の先にメカイ籠(かご)を逆さにつけ、母屋の軒先に立てかけました。一つ目小僧が来て籠目が一杯あるメカイ籠を目が一杯ある怪物と勘違いして逃げていくといいます。
2月の節分でも追儺をして、軒先に柊の葉のついた枝とめざしをつけました。

今日は湘南のこの町では、来年盛大に正月飾りを海岸に積み上げて火にくべる、どんど焼き(左義長)の祭りの初日です。八日節句には子供達が町内を回り、「一番息子」という不思議な所作が行われます。
古くからの漁師町である下町の集落では、江戸の中期、享保年間あたりに盛んに道祖神が祀られました。集落の境で入ってくる疫病や、災いを防いでくれる神様であり、地蔵と同じく子供達の親しい守り神でもあったそうです。道祖神は石で作られ様々な形です。その道祖神さんの周りには五輪の塔や、その残欠、他集落にあった石塔なども寄せ集められ供養されていました。8日の朝集落の道祖神の祠の和えに集まった男の子たちは、祠にお参りし、ゴロ石という赤子の頭くらいの大きさの丸い玉が二つ繋がった石の中央の窪みに縄をつけ、集落の家々を巡ります。「一番息子 誰々さんのお嫁さんが早く来ますように」とか「誰々さん家に良い年が来ますように」とか、その家の願いを聞いて子供達が囃します。昔は男の子が七人も八人もゾロゾロとゴロ石を引いて歩いたそうですが。少子化の現在子供隊には女の子も混じり少数で、おまけに学校があるから、行事も土曜日か日曜の朝に延期する集落が多いようです。家々は子供達に、豆腐とお菓子やお礼をします。豆腐は大豆でできていてマメに暮らせるようにとのことだそうです。ゴロ石はなぜ出来たのか、五輪の石塔の上二つを使うという話も聞きました。
そのゴロ石を家々の地面に叩きつけるようにして、願いを込める、「一番息子」の季節です。

柳田國男が柳田家のルーツは湘南の西小磯付近ではといった「故郷七十年」という本があります。一つ目小僧の考察で、鍛冶屋の職業の人々、栄養からくる幼児の一つ目、何度も考察を重ねた経過が興味があります。目が一つの顔は、額の第三の目の辺りに位置するのでしょうか。亡くなった水木しげるさんの「目玉おやじ」も一つ目の仲間でしょうか。画家ルドンの一つ目も印象的です。

そうそう今夜は、履物も丁寧に家に入ってしまわないと、外に履物が脱ぎ捨ててあると、目一つ小僧が帳面に記して報告されてしまうのだそうです。履物もきちんとはきなさいという暮らしの知恵から生まれた優しさなのでしょうね。

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十二月七日 [写真]

元気なターサイの大株と、獅子柚子。獅子柚子はピールを半分で作りました。
寒風で干して、ドラーピールに挑戦。今朝は寒い朝でした。
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            日輪と黄金の柚子凍結す    むおん






十二月六日 [かたち]

ターサイ塌菜の大きな株を、朝の市場で求めた。大枚140円。直径は30センチ近く。生き生きと大輪の花火のような、命のかたち。元気な朝の宝物。す光の輪.jpg

十二月五日 [山]

数分前に国道一号線の大磯切り通し付近を通過しています。右手に旧吉田茂邸、正面に真白き富士、寒い朝です。今朝はスマホからアップしました。image.jpeg

十二月四日 [世界]

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図書館で「帝国日本の生活空間」を借りた。岩波書店刊 
中に234ページ、「観光」という言葉の20世紀における用法は、植民地支配下の台湾人を感化するために計画された、内地への最初の視察旅行の時期に生まれたものと考えられる。とある。
日本の植民地当局がこの単語を使い始めた時、それは単なる見物以上のものを含んでいた。その語源は文明化と君主への忠誠を示唆した、一八九九年に台湾植民地官僚である木村何某が、台湾漢民族の集団を大阪で開かれる第五回内国勧業博覧会に連れてくることを提言した意見書でも、この言葉が使われている。このように植民地支配下の民族を内地に連れてきて感化させる事業は、アメリカもインディアンを東欧諸国に連れて行き、仲間に見たものの脅威を伝えさせたということが先例であり、日本も模したという。

1898年から台湾総督府は、台湾原住民の団体を日本に連れてきている。1912年には、第一師団、砲兵工廠、帝国大学、士官学校、赤羽工兵隊、板橋倉庫、横須賀鎮守府などを回った。1911年からは毎年のように1940年までほぼ毎年おきに行われていた。

観光とは「感化」という目的もあったのか。

昨年台湾へ行き、モーナ・ルダオという少数民族の首領の名を知った。彼も上のいずれかの年に日本の観光をしたと知り何か興味深い本となった。「帝国日本の生活空間」は1960年生まれのジョルダン・サンド(コロンビア大建築学科修士) 

十二月三日 [人]

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顔認識ソフトは、恐ろしい程過去の人物の写真でも認識して、誰ですかと聞いてくる。
人のシルエットでも何れかなりの認識が可能な時代が来るのだろう。恐るべし。恐るべし。

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