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1月31日 [物語]

何かが終わることは、始まりでもあること。事おさめとは、事始でもある。
今日という日に、世界で3番目に出来たという公立の美術館が閉館する。
鎌倉という地に、その美術館ができたのは、何か必然だったのだろう。
大衆の為の、王侯貴族のものではない美術館。近代美術館という近代は、たかだか100年もたつてはいないのか。

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ジャコメッティの歩く人が、水面をしつかりと歩みだす姿



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平家池の蓮の葉はみなぞこで、雨滴の輪



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明日をみつめて。



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風と 作品名の 彫刻





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又明日に続く

1月30日 [写真]

昨日は鎌倉の神奈川県立近代美術館の鎌倉館に行った話を打ちました。今朝も雨の鎌倉、後二日となった愛称鎌金には大勢の名残を惜しむ人たちが来館しているでしょう。美術館にペコリと頭を下げて帰って行ったリュックを背負ったおじさんの姿が、妙に記憶に残り、この美術館との関係を想像してしまいました。開館65年の建物を作る時に工事に携わった人の息子さん?ならばリュックのおじさんは60代。父親が建てた建物にご苦労さんとご挨拶は納得です。或いは、いつもお参りに来る八幡宮の帰りに美術館の周りだけ歩いて中には入ったことがない人かも。美術館賞マニアで息子は画家を志したが普通のサラリーマンいなっている父親の初老の人。いろんな物語が、昨日のペコリで浮かんでくるのです。

そういう私は横浜の学校に通う高校生の頃の50年前に、京浜急行の金沢八景駅から歩いて、朝比奈峠の切り通しを超えて、一時間半ほどで八幡宮境内の美術館を見学しました。静かでいつも人がいない常設展だったかの美術館で一番好きだったのは、一階池に面したロビーです。池の波紋と、揺れる蓮の葉を開かずに眺めていました。そんな想いでの美術館に半世紀前に、「こんにちは」して昨日「さようなら」をしてきました。建物は保存され一部はとり壊すそうですが。これも時代の流れです。

二回にわたり鎌倉への散策以下に掲載いたします
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大船駅であったポスターの女

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大船駅の横須賀線ホームの昭和の匂い

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小町通の空は数年前から広く大きくなった。雨の日は尚更。

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雨の鎌倉のキノコ達

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人力車の数は今 全国では何台ですか

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走らなくても 車は止まる

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写真を撮る人の姿が面白い光景、足元には65年の亀裂が 明日に続く

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1月29日 [物語]

鎌倉にいます。鶴岡八幡宮の境内にある、鎌倉近代美術館が今月の31日で閉館するのでやって来ました。雨なので来館者は少ないと思ったのですが、意外と沢山の人出。開館は1951年という歴史だから、さようならを云いに来た人達が多いのも当然ですね。
帰りがけリュックのおじさんが、美術館の玄関の階段と建物に、深々と挨拶の御辞儀をして帰って行かれたのが印象的でした。デジカメは1948年生まれのレンズ他3本を持って出かけました。一枚のディスク全てをたっぷり撮影しました。16歳の頃から此の美術館へ通い始め、半世紀の時間が流れた事に深いものを感じました。画像は、アイフオンから、美術館2階テラスからと、小町通りの路地のカフェの窓から。

鎌倉の白梅の樹半世紀 無音




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半世紀作品の影に蓮の華 むおん


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1月28日 [空]

アインシュタインが第三次世界大戦は、どのような武器で戦うかわからないが、その次の戦争は石で戦うだろうと言っていたという。石は古代から武器として使われてきた。一対一の喧嘩が、礫うちの集団同士の戦いになり、境界をめぐり国同士の戦争までになる。戦争をする国の中でも内乱や論争があり激しく分裂を繰り返す。アインシュタインが予言した、石の武器とは、国の代表同士が石を持ち戦う喧嘩の原点なのだろうか。

古く集落に嫁入りがあると、小石を花嫁に投げる慣習があったという。打ち所が悪く大怪我をした花嫁の記事が昔あった。当時は嫁入りも命がけだったのだろうか。









            放物線描く小石は冬の虹    ムオン




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      礫持ち平和のための血と雪と  ムオン


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1月27日 [海]

鳥取県岩美郡岩美町網代漁港の蟹が届きました。高波と大雪で、船が出せなかったようで、晴れ間を見つけての漁だったのでしょう。雪の中を走るトラックと漁師さんに感謝して美味しく頂きました。脱皮して身が柔らかくなった、元松葉蟹は、水蟹と呼ばれて松葉蟹よりもお安く、庶民の味方のお値段です。最近は若松葉蟹と、名前を変えています。
夏の主役、猛者エビという幻の、海老も頼みました。甘エビより上品な濃厚な甘味。どちらも刺身、焼き、鍋で頂きました。
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1月26日 [文字]

般若心経の写経をしました。紙に一刀一刀刻み込むように書き終えると。心が洗われる。不思議な世界だ。リズミカルに心も踊る。身体が軽くなる。不思議な不可思議な世界。
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1月25日 [山]

大磯町の中央部に西小磯という地域があり、本郷山という山がある。この丘陵地帯35万坪を、鎌倉山住宅株式会社の専務管原通済氏が住宅地建設として7年目の承諾により本格構想に入る。時昭和10年(1935)1月25日。鎌倉山の住宅地は開発されたが、大磯の本郷山住宅地は未開発で山のまま現在地至る。
蒲田の撮影所の候補地にも本郷山はなったことがある。その経緯は行き交うこうもが知っているのかもしれない。
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  山開き海を開きて人の冬   無音




1月24日 [山]

この町の一番東側に、高麗山という、海側から見ると、漢字の山の字の形の三つの峰がある。中央の峰が高麗山、東側が東天照、西側がハ俵山と呼ばれている。高麗の国の王子、若光がこの地に上陸した時に目印にした山で、後に山岳宗教の聖地となり、寺院が山頂と麓に築かれ、最盛期には、表十二坊、裏十二坊の末寺があつたという。江戸時代には天領となり、高麗寺は手厚く処されたという。鎌倉時代には頼朝も此の地に花見に訪れたが桜の花はまだ咲いてなく、前に流れる河を、花水川と名付け、鎌倉に帰ったという。頼朝が富士の裾野で巻き狩りを催した際、有名な曽我兄弟の仇討があり、此の兄弟に縁の、虎御前は、高麗山の麓の化粧坂に住んだという。
そんな高麗山の風景を、元木橋だった海側の橋の上から眺めた。
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1月23日 [空]

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世界の上に空があるのか、宇宙の中に空があるのか、どちらも事実なのだろう。
大気圏という名の中に繰り広げられる世界を見ていると見飽きない。
見知らぬ機体に 期待が起きる
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見知らぬコードに魅かれる 情報の道か
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雲が走る 空も走る
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 冬の陽を浴びて氷の雲が行く  ムオン







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1月22日 [俳句]

崖の道下りれば家よ今年竹 秋元悟楼


今年竹は、季語が夏。筍や、今年生え出した若竹や、新竹のこと。この短冊を手に入れたときから、崖の下という、上句が妙に気になっていた。今朝新聞を見て何か共感を覚えた。句の作者、秋元梧楼は、夏目漱石の俳友であり、大正元年に漱石揮毫の「明治百俳家短冊帳」を作っている。
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「崖」という存在が、漱石作品の「門」の中で重要なメタファーとして描かれたのではと、姜さんは指摘する。
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崖という文字が、そのまま切り立つ崖のように、力強い。門の主人公の家は、崖下にあった。
崖の上の人々の狂宴や、生活の気配が、崖下の竹薮に生え出した、筍で浄化されるような句だと想うのは考えすぎだろうか。姜さんは、漱石はデフレの文学という。福澤諭吉が好まれるインフレの時代は終わったともいう。
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「門」の中で静かに語られる、伊藤博文公暗殺の時代。満州に出かけた漱石が見た日本の姿。
今年竹は、崖の高さには達しないが、何か深い愛の象徴のようにも思えます。
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漱石の作品の中の崖と、句の中の崖が
同じかは、わからないのですが、深いつながりを感じました。俳句とは不思議な世界です。

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陽だまりに夏の短冊手にとれば むおん



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