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5月11日 [影]

散歩で二枚の落ち葉を拾いました。紅い葉が二枚どちらも美しい。どちらも同じではない。
その一枚の葉の世界をデジカメで捉えようとしても思うようにできないもどかしさ。

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ひたすら赤の再現を目指すのですがどれも違う、緋でもない、朱でもない、紅でもない、赤。
明るい赤と、暗い赤が無限の数で葉の上にある。一枚の葉を描き尽くせば宇宙がわかるとある画家は言いました。

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ある画家の日記には『天体までの距離は言語を絶する、眼前一尺の距離も又然り』とある。
眼前一尺に光と影に包まれた、一枚の葉があることの不思議。

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           二枚の葉初夏に躍る朝無限      むおん





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     赤がなぜか好き今朝も夏      ムオン


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     捩れたる社会の紐を舐めてみる   ムオン


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     昔はなぜか新しい 未来はなぜか懐かしい



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5月10日 [ネット]

今日は契約中のインターネットプロバイダーの営業マンが、光通信回線の変更の話で見えた。
世の中はADSLからFHTLに急速に変化しているのだろう。

数年前、家の周りの電柱の存在が気になった。張り巡らされる電柱と電線。増えてきた電信柱と電話線。
あの目障りな黒い線に電気と、電信の二種類があることを知り、両者はなぜ一本化できないかと思った。
日本の高級住宅街と言われる地域では、電線も電話線も地下に埋設されて開発されるようだ。
電気は今や一般家庭ではライフラインの筆頭で、電線が家まで来ることは当たり前だ。
電気ガス水道は、目に見える配線や配管がある。電信の世界は電磁波の問題はあるが、有線から無線の世界になっている。

スマホがあれば、電話も、テレビも、パソコンも、ネットケーブルもいらなくなってしまう世界。
家の周りや、家の中に血管や、神経のように張り巡らされた現代社会。情報の洪水をテレビの多チャンネル化や、インターネットの常時接続でストレスを感じる社会は必要なのだろうか。

十数年前に家の中にLANケーブルを張り巡らして、自分でコネクターの端子の設定までした時代は、パソコン通信からインターネット環境に切り替わった時期だった。

昨年の秋、東京に出て「春画展」を見た。その時80年ほど前の、バルナックカメラを持参して撮ったフィルムを最近パソコンに取り込んで見てみた。着物で拝観だと特別入場できるという企画で、着物姿の御婦人と着物の男性の組み合わせの拝観者も多かった。

今から80年後の世界はどうなっているのか、今のネット環境を見ながら、キーボードを叩く指先を見つめてしまった。

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デジタルカメラの世界に飽きて、オールドなフィルムカメラが8台ほどにもなりました。現像機でプリントする力と努力はないのですが、金属の塊に何か心が癒されます。

春画展も大勢の人が押すな押すなの盛況で癒されました。春画たちも数多くの目にさらされて顔を赤くしていたようです。人がいない中での鑑賞も怖いものがありますが。みんなで見れば恐くない、笑いも生まれそうでした。春画は笑画とも言われっていたそうですし。

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何かお目出度いことがあるようにと、床に猩々の面を飾っています。架空の動物猩々がお酒に戯れ、顔を赤らめ、水面を舞う姿。何か好きな世界です。









   猩々の逝きし世語る五月雨に  むおん








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     微笑みは古式の笑い夏が来る      むおん






5月09日 [俳句]

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俳句の俳の文字は、人に非ずと書くのは何故なのだろうか。新漢語林には、わざおぎ、芸人、俳優とある。そうか俳優の俳も同じだった。
おどけ、戯れ、滑稽の意味もあるという。常識に背いた一風変わった振る舞い、おどけの意味ともある。
俳諧とは、正統的な和歌に対し、滑稽味を帯びた和歌。
連歌の一体。洒落や俗語を用いた卑俗、滑稽なもの。ともある。

正統な和歌は、呪歌から発生したとも聞いたことがある。




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1974年の夏か初夏のことだったろうか、今から42年前私は大阪にいた。テレビでガラスの破片が散乱する路上が映され、東京丸の内のオフィス街で三菱重工爆破事件が起きたことを知った。
従姉妹が事件現場近くのオフィスビルの会社で秘書をしていたので電話を入れ無事を確認した。

私が20代の出来事だった。数年前にこの句集に出会うまでは自分の20代を振り返ってみることもなかった。句集の名は「棺一基」2012年の刊。

著者の大道寺将司は、1948年生まれ、東アジア反日武装戦線「狼」のメンバーで、連続企業爆破事件を起こし1979年東京地裁で、死刑の判決、1987年最高裁で死刑が確定、2010年多発性骨髄腫の癌で獄中の闘病生活を送っているという。そんな彼が二冊の句集を出した。

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2012年の句集『棺一基』から
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「棺一基四顧茫々(しこぼうぼう)と霞(かす)みけり」から採られた。霞は春の季語。「四顧」とあるからには、そこにまわりを見渡す者がいる。それは誰なのか? 木棺に横たわる死者か。
 私はここに、霞の中にたたずんで自らの屍(しかばね)が入っている棺をみつめる、死者その人のまなざしを感じる。白い闇が際限なく広がる。その中心に木棺が一基のみ、孤絶に、そこにある。このように死と向き合って一日一日を生きる。それが死刑囚の毎日だ。
「死者の書」を思い出してしまう、生きていることのありがたさが霞の中に見えてくる。
人も獣も生きているものは100パーセント死ぬのだが、他者から己が命を奪われる気持ちは嫌な世界だ。

   生きてあることの宜しくづくの鳴く    大道寺将司

づくとは、ミミズクのことだそうだ。ならば深夜の連想句だろうか。
何か希望と絶望の低音の鳥の声が聴こえてくる。

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命の重みを感じてしまう

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  黴とこそ見ゆるものあり拭いけり   大道寺将司

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      九条も螻蛄の生死も軽からず    大道寺将司




子供の頃、螻蛄(ケラを捕まえては)「お前の憲法どのくらい!」と螻蛄の両手を広げさせ遊んだ光景を思い出す。あの後ケラは大地に戻されたのか記憶がない。









     縮みゆく残の月(のこんのつき)の明日知らず    大道寺将司第二句集より










5月08日 [花]

黒いチューリップの花びらが落ちずに頑張っています。生きる事に未練溢れた好きな姿です。
潔く桜のように散る世界は自分とは無縁でありたいと最近は感じます。


散る桜観念の森に吸いこまれ むおん



しがみつく国なき人に初夏の雲 むおん




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桜散りチューリップの嘆く夏 ムオン




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倒れし初夏と眠る花 むおん






5月07日 [海]

昨日は横浜野毛山の動物園から、伊勢佐木町に出て横浜橋商店街を散策、みなとみらい地区の赤レンガ倉庫の隣に出来た、マリン・ウオーク M&Wを訪ねました。海上保安庁の船が停泊する管内の近く東側に、北朝鮮の拿捕船が展示してある大きな棟が見えています。海外移住者センターなるビルも近くにあり、何かいったことはないけどニューヨークの一画のイメージも湧いてきます。
真っ白い建物が小さなブロックで建てられ海を感じる素敵なショップたちです。

 






         海原の先端にカモメなき哉 ハマの夏   むおん




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    天空を駆けて海行く猫の夏       ムオン


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   猩々と名のある鳥の夏を塗り    ムオン





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    ため息と吐息に会いし夏の路地    ムオン






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5月06日 [いのち]

今日は横浜の野毛動物園に出かけました。小さい頃、母親に連れられやってきた記憶があります。当時の動物たちの何代目かの子孫とも会えた気がしました。
飼育員さんたちご苦労さんです。主役の動物たちも本当にアリガトウです。

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5月05日 [水]

先日鎌倉の写真家の方が二年の歳月を掛けて撮られた、熊本は人吉市の或る焼酎酒造の人と自然を捉えた写真集を頂戴した。若草色の箱に、桜色の二冊が納められた、香りたつ様な書肆だ。


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萌ゆルわかく花色香り むおん



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濃き緑の中卓を囲む幸せな春


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笑顔と笑みが初夏に眩しく


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人吉は水の国、酒香る夏


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地震で人吉市の役場も使えなくなったというが、酒造は無事だった様だ。香りの酒を求めて支援の気持ちにと。ネットから注文しよう。

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5月04日 [アート]

先日鎌倉の江ノ電側近くの行きつけの書店で、高島野十郎の本を買った。
数十年前から注目され始めた画家の没後40年の展覧会が福岡から始まり、今月東京目黒で開かれている。
興味を惹かれるので先ずは本を仕入れた。
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闇を描くために月を描いたという。月影という言葉が、つきかげは月の光をも意味する。
煌煌と輝く月は見つめることがあっても、太陽は直視するには輝度が強すぎ目にも危険だ。
鎌倉の写真家の方が、この本にエッセーを寄せられている。
写実とは何か。絵画とは何か。そして写真とは何か。
写真と絵画の違いと、共通点を知りたくてこの本を買った。

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画家の視線が気になる。なんのために絵を描いたのか。誰のために。

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慈悲という言葉が、本の中で出てくる。慈悲とは写実の先に見えてくるものなのか。

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ろうそくの画家とも言われた、画家は知人や友人にただろうそくの絵を配ったという。
蝋燭の炎が、今のLEDの光でない、魂の燃焼の音が聞こえてきそうな画面だ。

目黒美術館でこの絵に対面できる日を楽しみに。

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      一魂の初夏の風吹く宵歌う    む お ん








5月03日 [写真]

50年程前の高校時代の集合写真が出て来た。約百五十名程の生徒が写っている。自分は冴えない顔でその中にいる。1964年頃のモノクロ写真だ。クラスは専門学校のコースで25名だった。島から通う同級生が夏休みにモーターボートのアルバイトで、笑いが止まらない程の大金を手に入れ彼の人生は変わってしまった。半ばオリンピックと云う嵐が彼を発狂させる様な時代だった。無医村の僻地の医者になりたいと学生運動にも没頭した男もいた。演劇部で芝居の熱につかれ、卒業後も劇団の関わりから抜け出せない男がいた。様々な人生を歩んでいる彼らと、自分を一枚の写真を見ながらひたすら眺めた。image.jpeg

その一枚の写真を持って、この間の日曜日鎌倉に向かった。
集合写真のなかに写っているだろう人物に会うために。

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その人物は、当時一学年先輩で、今は有名なプロの写真家で、鎌倉にギャラリーを構えておられる。
24歳の時、NYで「首無し写真」で鮮烈なデビューをされたという。
鎌倉のギャラリーでその非売品と書かれたオリジナル写真を拝見した。
ローライフレックスの真四角な画面に山手線だろうか金網越しに疾る背景の線路側に斜に構えて足元が地下足袋の人物が、バカボンのパパのような出で立ちで腰に手を当てて立っている。何故かフレームの中に顔が写されていなくて、顎の下から足元までの構図だ。

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同じ写真が、非売品の隣に「24歳の自画像」と書かれもう一枚掛かる。
つまり写真家自身がモデルになって撮影された写真という証なのだろうか。
強烈に顔無し写真は何かを訴えてくる。
不安定なもの、不確実な世界の不気味な存在証明のようなもの。

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一枚の集合写真を見てもらうと、僕はここに居ますと、正面最前列に座るご本人を指差してくださった。そこに映る若き日の写真家の顔には、顔無し写真の不気味さは微塵もなかった。

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美しい庭先が眺められる喫茶コーナーで至福の香の珈琲を頂き、鎌倉をあとにした。


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5月02日 [旅]

鎌倉へ出かけました。小町通は未来へタイムスリップしたかのような世界。若者だらけで中高年は何処かへ避難中のよう。裏通りの静寂な路地を選んで目的地に一目散。

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真夏日に路地の女優の笑み涼し 無音





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